未来を夢見て生まれた、3台のスーパーカー【日産ミッド4-Ⅱ編】

  • 撮影:谷井功
  • 文:藤原よしお

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1996年のホンダNSXまで、ミッドシップの日本製スーパーカーは夢だった。70年代から脈々と続く技術とデザインの挑戦を、3台のクルマで振り返る。

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【1987年 日産 MID 4-Ⅱ】「技術の日産」を象徴する、ミッドシップのプロトタイプ

初代は「運動性能追求のための研究実験車」という触れ込みで1985年のフランクフルト・ショーでデビュー。230PSの3ℓV6DOHCを横置きしたミッドシップ・シャシーにフルタイム4WDシステムを組み込んだ2シーター・スポーツは、その完成度の高さから、「市販間近」と騒がれた。MID4-IIは87年登場の2代目で、先代の経験をもとにすべてを刷新。トルクチューブでリジットマウントした330PSを発揮する縦置きV型6気筒DOHCインタークーラー付きツインターボを搭載。サスペンションはフロント・ダブルウィッシュボーン、リア・マルチリンクとなり4輪操舵のHICASも装備。 エンジン:水冷V型6気筒DOHCツインターボ 2960cc | 最高出力:330PS/6800rpm | 最大トルク:39.0kgm/3200rpm | サイズ:全長4300mm×全幅1860mm×全高1200mm

1980年代、スポーツカーは、パワーに任せた最高速や奇抜さを競う時代を終え、電子制御を使ったテクノロジーの時代を迎える。

その口火を切ったのがドイツのアウディだ。彼らは72年にポルシェから技術部門の責任者として移籍したフェルディナント・ピエヒが開発を進めてきた、フルタイム4WDシステムを組み込む2ドアクーペ「アウディ・クワトロ」を80年に発表。悪路走破用と思われていた4WDを、あらゆる状況下で確実にトラクションを路面に伝えるための道具として用いる発想の転換は、世界の技術者に大きな衝撃を与えた。

82年からは、モータースポーツでグループBの規定が施行。連続する12カ月間に生産された200台をホモロゲーションの対象としたことで、各メーカーから少量生産のスペシャルモデルが次々と送り出されるようになる。

ポルシェを意識した、最新技術の数々。

その中でひと際注目を集めたのが83年のフランクフルト・ショーでポルシェが発表した「グルッペB」だ。85年に「ポルシェ959」として限定生産に移されることになるこのスポーツカーは、ケブラーなどを使用した複合樹脂のボディ、前後トルク配分可能な電子制御式フルタイム4WD、ターボラグを改善したツインターボ・エンジンなど、「最新技術のデパート」と呼ぶにふさわしい最先端のスポーツカーだった。

この流れを受け、日産自動車も市販化を想定したスポーツカーの開発に着手する。それが85年のフランクフルト・ショーで初公開されたミッドシップ4WDの2シーター・スポーツカー「MID4」である。

設計開発を行ったのは櫻井眞一郎や古平勝ら、プリンス自動車工業で日本初の本格的ミッドシップ・レーシングカーであるプリンスR380を開発した生え抜きたちだった。

シャシーは4輪マクファーソンストラットのサスペンションをもつスチールモノコック。エンジンは3ℓV型6気筒VG30ユニットのヘッドをDOHC化した新開発のVG30DEユニットをフェラーリ308やフィアットX1/9のように、車体中央にコンパクトにまとめられる横置きに搭載。そこにオーストリアのシュタイア・プフに開発を依頼したビスカスカップリングでセンターデフを制御する4WDシステムを組み合わせた。

こうしていままでの日産車文脈にはない、低くスポーティなスタイルを纏って現れた「MID4」は、雑誌の表紙を飾ったり、ミニカーが発売されるなど大反響を巻き起こす。

そしてより実現性の高い後継車として87年の東京モーターショーで発表したのが写真の「MID4-Ⅱ」だ。 

開発を前に病に倒れた櫻井に代わり陣頭指揮をとったのは、初代にも関わっていた中安三貴。ここで先代の結果をもとに大幅な設計変更を加えることにした。まずエンジンはさらなるパワーを求め、インタークーラーとツインターボを装着し、最高出力を330PSへと引き上げた3ℓVG30DETTユニットを開発。その搭載方法は前後のデフをつなぐトルクチューブにリジットマウントすることで、駆動系の剛性アップや前後重量配分の改善が期待される縦置きに変更した。

サスペンションはポルシェ959のようなツインショックをもつフロント・ダブルウィッシュボーンと、リア・マルチリンクへと変更。フルタイム4WDシステムに加え、最大変位角2度の4輪操舵機構HICAS(ハイキャス)も装備している。

桑原二三雄と伊藤浩志の手による流麗なボディは、鋼板を中心にアルミ、FRP、CFRPといった新素材を組み合わせていたのも特徴だ。

MID4-IIの全幅は1860mmと初代より90mmも拡大。ホイールベースも2540mmへと伸ばされ、室内の居住性も向上した。左右のシートにもゆとりがあり、ワイド&ローのグラマラスなデザインだ。

フロントに加え、シートバック、そしてリアにもラゲッジスペースがあるあたりが市販車メーカーのつくるスポーツカーらしい点だ。リアスポイラーやディフューザーなどの空力処理は見当たらない。

幻に終わった、テクノロジー時代の申し子。

多くの期待を集めながらも発売されずに終わったMID4-II。しかしその完成度の高い内外装を見ると、なんとか市販化しようと努力を重ねていた開発陣の本気度が伝わってくる。

市販間近に感じる、本気のプロトタイプ

「市販は間近」と各所でまことしやかに囁かれただけあって、いまの目で見ても自動車としての完成度は高い。インテリアの装備や仕立ては、当時の日産車と変わりのないレベルのものだ。

しかし仔細に見ていくと「このまま市販されて成功したか?」については疑問が残る。なぜなら細いAピラーやサイドシル、開口部の大きなボディなど、300PSを超えるミッドシップカーとしてはシャシー剛性が足りないように見えるほか、冷却性や空力にも改善の余地があるように感じられるからだ。

一方で確実に言えるのは、初代を開発した際に櫻井が「誰が乗ってもプロと同じぐらい上手に速く走れてしまうクルマを目指したい」とコメントしているように、MID4は目先のレースや、世間をアッと言わせるための話題づくりが目的ではなく、将来の高性能車のあるべき姿を見すえ、市販車並みの労力と情熱をもってつくられた本気のプロトタイプだったということだ。

その証拠に、ここで試された技術のほとんどは、日産の市販車にフィードバックされ「90年代までに技術の世界一を目指す」という901運動の原動力となった。そしてその動きは世界最強のツーリングカーとして89年に誕生したR32型スカイラインGTーRへとつながっていく。

確かにMID4は幻に終わった。しかし現代のスーパースポーツたちが、ことごとくMID4が試したアプローチを採用しているのを見ると、その存在意義の大きさがわかる。

ノーズのエンブレムはパイクカー、「日産Be-1」にも通じるデザインだ。

インパネ周りのサテライトスイッチや、3スポークのステアリング、センターコンソールにまとめられたエアコン、オーディオなど、フェアレディZ(Z32)やスカイライン(R32)にも通じる雰囲気をもつコックピット。この完成度を見せられた当時の人々が「市販間近」と信じたのも無理はない。

ミッドシップの定石通り縦置きとなった3ℓV6DOHCエンジンは、インタークーラーとツインターボが装着され330PSへパワーアップ。しかしエンジンルームは狭く、インタークーラーの配置に苦労した跡が見られるほか、エンジン自体の冷却効率にも問題を抱えていたようで、このままの状態で市販するのは難しかったのでは?と思われる。

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