トヨタがつくり上げた、日本を代表する高級セダン【名車のセオリー Vol.5 トヨタ クラウン】

  • 文:鈴木真人
  • イラスト:コサカダイキ

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「軽快・堅牢なシャシー、広くて快適な車室」というキャッチコピーで登場した初代クラウン。観音開きのドアをもち、後部座席の乗降性を高めていた。初代から3代目までの車名はトヨペット クラウンとなる。

時を経ても色褪せず圧倒的に支持され続けるモデルを紹介する、連載シリーズ「名車のセオリー ロングヒットには理由がある」。第5回で取り上げるのは、日本を代表する高級車のトヨタ クラウン。国産車黎明期の象徴的な存在であり、いまも最先端を走り続けている。

多くのクルマ好きにとって、トヨタ クラウンは興味の外かもしれない。“社長さんのクルマ”というイメージが強く、走りやスタイルに見るべきところはないと思われているのだ。しかし、時代は変わった。現在のクラウンは、ドライバーズカーの色合いが濃くなっている。クラウンといえば社用車、タクシー、パトカーだったのは、遥か昔の話だ。最新モデルの優れた点には後で触れるとして、クラウンはその誕生から特別だった。初の「純国産乗用車」と呼ぶべき成り立ちなのである。初代が発売されたのは、1955年。神武景気が始まり、国民の消費意欲が高まっていた時期だ。それ以前、第二次世界大戦後は日本の自動車会社はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から乗用車製造を禁じられ、トラック生産だけが許可されていた。その後少しずつ規制が緩和されていき、47年にトヨペット SA型という乗用車を発売するが、技術的には戦前から進化していない。36年にはシボレーとクライスラーを模倣したような乗用車トヨダ AA型をつくっていたが、それ以降は軍需に応じた生産しかできなかったのだ。

ルノー 4CVは、第二次世界大戦後のフランスで大人気となっていた小型車。駆動方式はRR(リアエンジン後輪駆動)で、4輪独立懸架を採用していた。この日野ルノー 4CVはタクシーとして広く利用され、1963年までに約3万5000台がつくられた。

旧通商産業省は海外の自動車メーカーとの提携で、自国の自動車産業を復活させることを計画した。ノックダウン生産である。日野、日産、いすゞがそれぞれルノー公団、オースチン、ルーツグループと組み、技術供与を受ける。53年に開始され、日野がルノー 4CV、日産がオースチン A40サマーセット、いすゞがヒルマン ミンクスを生産した。当初は多くの部品を輸入していたが、しだいに国産化比率を高めていく。最終的には完全国産化を達成し、この提携で学んだ技術を使ってオリジナルモデルを開発することになる。日本の自動車産業にとって有益な取り組みだったが、トヨタは独自路線を歩んだ。トヨタ創業者の豊田喜一郎の甥である豊田英二がアメリカの自動車工場を視察し、学ぶべきものはないと考えたからだ。初代クラウンは1.5Lの4気筒OHVエンジンを搭載し、前輪には独立懸架を採用。最高速度100km/hを誇り、快適な乗り心地を実現していたという。多くはタクシーとして使われたが、自家用車としても販売された。

空力特性を意識したボディデザインをもつ4代目クラウン。「クジラクラウン」という愛称でも呼ばれ、段を設けた前端部の形状が特徴的だが好き嫌いはわかれた。

60年に大がかりな改良を受け、1.9Lエンジンとトヨグライドと呼ばれるオートマチックトランスミッションが追加された。62年に初めてフルモデルチェンジされた2代目は、アメリカ車を強く意識したデザインに。67年に3代目となり、日本を代表する高級セダンとしての地位を確立していく。対抗モデルが現れたのは59年。プリンスがグロリアを発売し、翌年日産がセドリックで続いた。両社は66年に合併し、セドリック・グロリアがライバルとなっていく。クラウンはナンバーワンの座を譲らなかったが、71年に登場した4代目で盤石の体制が崩れた。スピンドルシェイプと名付けられた斬新なスタイルは、多くのユーザーから拒否反応を示されたのだ。「クジラクラウン」という愛称でも呼ばれ、現在では名車とされているが、時代に先駆けすぎたということらしい。

ドメスティックでありながら、グローバルを志向する国産車。

7代目クラウンのエンジンバリエーションは11種類に達する。DOHCが普通になり、ターボの他に日本初のスーパーチャージャーエンジンも採用。このモデルを筆頭に、1980年代のクラウンは白のボディカラーが圧倒的に多くなっていく。

クラウンのキャッチコピーとしてあまりにも有名なのが、「いつかはクラウン」だろう。バブル景気前夜の1983年にデビューした7代目モデルで使われたフレーズである。これは実感を表した言葉なのだ。トヨタのラインアップではエントリーモデルにカローラがあり、順にコロナ、マークⅡというヒエラルキーが確立していた。その頂点に位置するのがクラウンである。終身雇用の時代で、一般社員はまずカローラに乗り、役職が上がるにつれて上位モデルに買い替えていくという図式が描かれていた。ミニバンやSUVなどの多様な選択肢がなかったので、セダンの中で車格を上げていくしかなかったのだ。この頃はちょうどハイソカーブームで、クラウンはマークⅡ三兄弟の兄貴分として高い人気を得た。しかし89年になるとレクサスブランドが誕生し、日本ではレクサス LS400がセルシオとして販売される。クラウンはトヨタの最上級車種ではなくなってしまったのだ。

レクサスが日本でも開業した後、“トップ・オブ・トヨタ”に返り咲いたのは、2003年に登場した12代目モデル。「ゼロ クラウン」と名付けられ、世界標準と若返りを旗印にしていた。

それでもクラウンが根強い人気を保っていたのは、長い間に築き上げた高いブランド力があったからだ。それは逆に古臭いという印象を与えることにもつながっていた。オジサンっぽいというイメージがつき、実際にユーザー年齢も高くなっていた。しかし、クラウンが凡庸でコンサバなクルマと決めつけるのは間違いである。常にいち早く先進の技術を取り入れてきたのが歴代のクラウンなのだ。前述した初代の前輪独立懸架とオートマチックトランスミッションは、日本初の採用である。3代目ではペリメーターフレーム(枠型フレーム)、5代目では車速感応型パワーステアリングを取り入れており、7代目で4輪ESC(電子制御式アンチスキッドコントロール)、8代目でトラクションコントロールを装備するなど安全機能にも力を入れている。1999年の11代目にはアスリートというグレードを設定し、スポーティなオーナーズカーだとアピール。そして2003年に登場した12代目モデルは「ゼロ クラウン」と名付けられ、「かつてゴールだったクルマが、いまスタートになる」と宣言した。「いつかはクラウン」からの脱却を目指したのだ。

革新性をビジュアルでわかりやすく示したのが、特別設定色“モモタロウ”のボディカラーをもつ14代目モデル「クラウン リボーン」。明るくビビッドな色はメキシコの建築家、ルイス・バラガンの建築の壁色からインスパイアされたという。

最新15代目モデルは2018年に登場。GA-Lプラットフォームの採用で、低く構えたフォルムとスポーティな走りを手に入れた。クラウンでは初となる6ライトキャビンとなり、特徴だった極太のCピラーは廃止された。

2012年に14代目モデルの試乗会に行った時の衝撃は、いまでも覚えている。会場に展示されていたのは、バカでかいグリルをもちショッキングピンクでペイントされた「クラウン リボーン」。破壊的な再生によって、クラウンは新世代への道を開いたのだ。18年に登場した現行モデルはその路線をさらに強化。プロトタイプの試乗会は、クローズドコースで行われた。ドイツのニュルブルクリンクで磨き上げたという走りを体感させるためである。確かに、ヨーロッパのプレミアムセダンに引けを取らないスポーツ性を身に着けていると感じた。発表会で強調していたのは、インターネットへの常時接続機能を有するコネクティッドカーとしての側面である。次世代の自動車に不可欠な機能を初めて装備するモデルとして選ばれたのは、やはりクラウンだったのだ。

グローバルカーのカローラなどとは違い、クラウンはほぼ日本専売のモデルである。ドメスティックなモデルなのに、トヨタは世界最先端の技術を注ぎ込む。初の純国産乗用車という出自をもつクラウンこそが、日本発のグローバルスタンダードを担うべきだという固い信念があるからだ。

トヨタ クラウン

1955年の誕生から、65年の長きにわたって日本の乗用車のトップに君臨。国産車黎明期の象徴的な存在であり、常にいち早く先進の技術を取り入れてきた。王冠のエンブレムは、2代目モデルから採用。日本を代表する高級セダンとして、その信頼性の高さから社用車や公用車にも数多く選ばれている。