戦争映画の概念を変えた『ダンケルク』

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    戦争映画の概念を変えた『ダンケルク』

    仲間の兵士たちが死に、たった1人海岸にたどり着いたトミーは救援船にいち早く乗り込もうとする ©2017 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED

    ナチスに包囲された兵士40万人を救った「奇跡の撤退」を緊張感あふれる映像で描く

    クリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』は反戦映画か? 答えは明らかにノーだ。

    第二次大戦中、ドイツ軍の電撃作戦でフランス北部ダンケルクの海岸に追い詰められた連合軍兵士40万人。彼らを救出する大規模な撤退作戦を描いたこの映画は、イギリス軍の英断とヒロイズムへの賛歌とも言うべき作品だ。

    反戦映画ではないが、戦争映画の「お約束」を覆した映画ではある。『ダンケルク』の前と後とでは、ハリウッドの戦争映画の概念が変わる。そんな予感すら抱かせる。

    「戦争を描く映画はいや応なしに戦争を賛美する映画になる」と言ったのは、ヌーベルバーグの巨匠フランソワ・トリュフォー監督だが、ノーランはユニークな着想でそんなジレンマを打破してみせた。

    『ダンケルク』が斬新な映画になり得たのは、ハリウッドの基準からすれば特殊な状況である「撤退」を扱ったからでもある。

    戦争映画には激しい戦闘シーンが付き物だ。スティーブン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』では冒頭の20分余り、ノルマンディー上陸作戦の熾烈な攻防戦がリアルに再現される。凄惨な地獄絵図が繰り広げられる点は、メル・ギブソン監督の『ハクソー・リッジ』も同じだ。ヒーローは沖縄戦で人命救助に徹する衛生兵だが、敵陣に進攻する側の視点から戦争を描いた映画であることに変わりはない。

    戦争の狂気を徹底的に皮肉ったスタンリー・キューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』でさえ、米兵たちは市街戦で一定の成果を上げる。

    戦時下の人間の無力さ

    そう、軍隊の前進を描くのが戦争映画の常道なのだ。ハリウッドの常識では、兵士は進撃するものと相場が決まっている。

    だが『ダンケルク』は違う。始まりは1940年5月24日。ドイツ軍の進撃に押され、連合軍はドーバー海峡に臨む海岸に撤退。もはや反撃に出る余力はなく、救援を待つのみだ。イギリス軍はドイツ軍の爆撃機とUボートの攻撃にさらされつつ、1人でも多くの兵士を救出しようと決死の作戦を展開する。

    主役級の兵士はごく平凡な男トミー(フィオン・ホワイトヘッド)だ。冒頭のシーンでは、トイレを探して仲間たちと市街地を歩いているときにドイツ軍に銃撃され、命からがら海岸に逃げる。トミーにとって戦争は自分の力ではどうしようもない、耐え難くも屈辱的な状況だ。

    兵士はただの犠牲者

    ©2017 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED

    この映画にも派手な爆撃シーンはあるが、ノーランが描くのは戦時下の人間の無力さだ。例えば、ようやく救出船に乗り込んだ兵士たちが船内への浸水に気付いてパニックになる場面。そこでは兵士たちはただの犠牲者でしかない。

    犠牲者の側に置かれた彼らはもはや民間人と区別がつかない。兵士と民間人を明確に分けるのがハリウッドの常識だから、この点でも『ダンケルク』は戦争映画の定石破りだ。

    兵士と民間人の2分法が極端な形で表れたのがシルベスター・スタローン主演の『ランボー』だ。深いトラウマを抱えたベトナム帰還兵が自分をバカにする民間人に怒り、たった1人で戦友たちの弔い合戦をする。

    あるいは、湾岸戦争後のイラクを舞台にしたデービッド・O・ラッセル監督の『スリー・キングス』。はみだし者の米兵たちが、奪った金塊を差し出してイラクの民間人を救ったことで一躍ヒーローとなる。

    『フルメタル・ジャケット』でも、前半では軟弱な民間人だった若者たちが鬼教官に徹底的にしごかれ、後半では殺戮マシン並みの兵士として登場する。

    こうした映画では「男の子」は戦争を経験して「一人前の男」に成長する。戦闘に加わる兵士が主役で、民間人はその他大勢にすぎない。

    『ダンケルク』はこの構図をひっくり返す。この映画に登場する最も勇敢な人物は民間人のミスター・ドーソン(マーク・ライランス)だろう。彼は兵士たちを助けようと自分の船でダンケルクに向かう。

    途中、海上で救出した兵士(キリアン・マーフィー)は戦闘のショックでろくに口も聞けないありさまだ。彼は船がダンケルクに向かうと知るとイヤだと暴れ出し、ドーソンと共に救援に向かう17歳の若者に致命傷を負わせる。ここでは精神的にタフなのは民間人で、兵士は臆病者だ。

    おじけづき逃げ惑う兵士

    ほかの兵士たちも自分だけが助かろうと姑息な手段を使ったり、避難場所のわずかなスペースを奪い合ったりする。これでは輝かしいヒーローどころか、情けない卑怯者だ。

    とはいえ例外はある。イギリス軍の戦闘機パイロットが戦友たちの逃げ惑う海岸の上空で見せる果敢な離れ業は、典型的な戦争映画のそれだ。それに兵士たちの惨めさや弱さを描いているからといって、戦争を批判する意図があるかといえば、それは全くない。

    戦争映画の新たな可能性

    「正当な戦争」なるものがあるとすれば、連合軍にとっての第二次大戦はまさにそれだろう。緊迫感を盛り上げる大音量のサウンドトラックは、これが偉大な作戦であることを絶えず思い出させる。

    だが第二次大戦が正当な戦争、もしくは避けられない戦争だったとしても、その後にアメリカが戦った戦争の多くはそうではない。にもかかわらずハリウッドは、ベトナムやイラクその他の戦争を避けられない戦いであるかのように描いてきた。

    たとえ戦争の残虐性を描いた映画でも、派手な戦闘シーンは観客を魅了する。人々はヒーローに憧れ、その他大勢の民間人ではなく、「選ばれし者たち」の仲間入りをしたいと思う。

    だが『ダンケルク』の兵士たちは選ばれし者ではない。おじけづき、逃げ惑うその他大勢だ。兵士一人一人の置かれた状況にリアルに肉薄した描写で、ノーランは戦争映画の新たな可能性を開いた。

    文:ノア・バーラッキー


    © 2017, Slate


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