「男と女のどちらを好きになるか」は育つ環境で決まる?

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    「男と女のどちらを好きになるか」は育つ環境で決まる?

    svetikd-iStock.

    人が異性愛者になるか同性愛者になるかは先天的に決まるのか、それとも社会環境によって刷り込まれるのか。ボストン大学の認知神経科学者2人による性的欲望の研究より

    性的欲望を生み出す脳のソフトウエアはどんなしくみになっているのか? そんな疑問を抱いたボストン大学の認知神経科学者、オギ・オーガスとサイ・ガダムは、インターネットを情報源に使って「世界最大の実験」を行い、1冊の本を世に送り出した。『性欲の科学――なぜ男は「素人」に興奮し、女は「男同士」に萌えるのか』(坂東智子訳、CCCメディアハウス)だ。

    4億の検索ワード、65万人の検索履歴、数十万の官能小説、数千のロマンス小説、4万のアダルトサイト、500万件のセフレ募集投稿、数千のネット掲示板投稿――これらをデータマイニングにより分析した彼らは、読み物としても濃密な1冊に仕上げている。

    ここでは本書の「第1章 大まじめにオンラインポルノを研究する――性科学と『セクシュアル・キュー』」から一部を抜粋し、3回に分けて転載する。シリーズ第1回は「性科学は1886年に誕生したが、今でもセックスは謎だらけ」、第2回は「性的欲望をかきたてるものは人によってこんなに違う」。この第3回では、第2回の続きを掲載する。

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    「男と女のどっちを好きか」を決めるもの

    1965年、カナダのマニトバ州で、生後2週間の男児デイヴィッド・ライマーに包茎切除手術を施しているとき、担当した泌尿器科医が誤って、電気焼灼針でデイヴィッドのペニス全体を焼き落としてしまった(北米では当時、宗教上の理由ではなく、衛生上の理由から割礼を行うのが一般的だった)。このゾッとするような悲劇に直面したライマー夫妻は、当時、性科学者としてもっとも高名だった、ジョンズ・ホプキンス大学のジョン・マネー博士に相談を持ちかけた。マネー博士は、性欲は、完全に社会環境からの刷り込みによって生まれると信じていた。彼はこう言って、ライマー夫妻を安心させた。「何も心配はいりませんよ。奥さんが女の子を産んだ場合につけるはずだった名前を思い出してください。デイヴィッドに女性器をつける手術をしましょう。男性器を失った息子さんを娘として育てればいいんですよ」

    こうしてライマー夫妻は、男として生まれた「娘」を持つという、想像しうるもっともデリケートな秘密を抱えることになった。彼らは娘のブレンダに、その秘密を明かすことはなかった。彼女にドレスを着せ、人形を与え、ホルモン治療を受けさせた。ボルチモアにあるマネー博士の研究室に通って、ブレンダにセラピーも受けさせた。性欲は社会環境から刷り込まれたものと主張する学者は、少女にいったいどんなセラピーを施したのだろうか? マネー博士は、幼いブレンダに成人男性のヌード写真を見せ、こう言いきかせた。「これはね、大人の女の人が好きなものだよ」。マネーはブレンダの成長を喜んだ。学会では、10年以上にわたり、新生児の段階で性を転換する世界初の実験は、「完全な成功をおさめた」と報告し続けた。

    しかしブレンダは...

    しかし、もしあなたがブレンダと話をしたとしたら、彼女はその実験について、まったく違った感想を語ったはずだ。彼女はすでに3歳の時点で、怒って自分のドレスを引き裂いた。人形と遊ぶのを嫌がり、おもちゃは車や銃を好んだ。なわとびの縄は、跳んで遊ぶのに使わないで、弟をむち打ったり、だれかを縛り上げたりするのに使った。幼少のころの記憶としてブレンダが思い出せるもっとも古いものは、父親に、「わたしもお父さんみたいにひげをそってもいい?」とたずねたことだという。学校では、男の子みたいな変な子だとのけ者にされ、いじめられ、拒絶された。ライマー夫妻はブレンダをガールスカウトに入れた。ブレンダはこう語っている。「デイジーで花輪を作って、こう思ったのを覚えています。『これがガールスカウトで最高に楽しいことなら、ガールスカウトなんてもうたくさん』。弟がカブスカウト(ボーイスカウトの年少版)でおもしろそうなことをやっていたんで、うらやましくてたまりませんでした」

    では、マネー博士が力を入れていた性欲のコントロールはどうなっただろうか? ブレンダは、思春期を迎えても、男の子にはまったく興味を示さなかった。不安でいっぱいのライマー夫妻に、マネー博士はこう言って追い打ちをかけた。「自分の娘がレズビアンになってもいいんですか」。ブレンダが心の葛藤に苦しんでいるのが傍目にも明らかになって、ライマー夫妻は追い詰められ、ついにほんとうのことを話した。彼女が14歳のときのことだった。ブレンダはこう述懐する。「それまで自分が感じていたことの理由が、それでやっとわかりました」。ブレンダはさっそく、名前をデイヴィッドに戻した。「僕は変な子なんかじゃなかったんです」

    彼は、乳房切除手術を受けて、ホルモンによって作られた乳房を取り除き、陰茎形成手術で、機能しない形だけのペニスを備えた。彼はかねてから女の子に大いに興味があり、デートもするようになった。最終的には結婚することもできた。しかし、マネー博士には二度と会わなかった。男に戻った10年後に、彼はこう語ったという。「あれは洗脳のようなものでした。ああいう人たちに心理戦で頭脳を攻撃されたら、体への攻撃よりもはるかに大きなダメージになるんです」

    失敗に終わったマネー博士の実験は、世界で最初のものであったが、残念ながら、最後のものにはならなかった。実験は成功したというマネー博士の楽観的な報告に触発されて、男の遺伝子を持ちながら、何らかの男性器官の欠損を抱えた何千人もの乳児が、女の子として育てられたのだ。2004年にある泌尿器科医が、男の遺伝子を持ちながら、新生児の段階で性転換をした14人のその後について報告している。それによれば、14人中、7人は男性としての暮らしに切り替え、6人は女性のまま暮らし、1人は自分の性別を語るのを拒んだという。男性に戻った人たちだけが、デートを経験し、自立した生活を送っていた。今では、医療機関は新生児の性転換手術を控えるようになったが、その理由のひとつは、デイヴィッド・ライマーの実験が悲劇に終わったことだ。2004年、38歳のデイヴィッドは自分の頭を銃で撃ち、心理戦に終止符を打った。

    思春期の少年が「男の家」で

    デイヴィッド・ライマーの例は、男の脳が女性に興味を抱くのに、社会環境はほとんど影響しないことを示している。しかし、例はこの1件しかない。社会環境の影響を確かめるには、もっと多くの人を対象とした事例が必要だ。地域の少年全員に、同じ性的刺激を与え続けたとしたら、彼らはどうなるだろう? 少年が大人になったとき、そのなかの何パーセントが、その性的刺激を好きになっているだろうか?

    たとえば、地域の思春期の少年全員が、大人になる通過儀礼の一環として、3~4年にわたって週に何回か、年上の10代の少年にフェラチオをさせられる地域があるとしよう。男の脳が男と女のどちらに性的魅力があると判断するかが、社会環境によって決まるのであれば、その地域で多数派を占めるのはホモセクシュアルか、少なくともバイセクシュアルということになる。

    実は、そんな地域が実際にあるのだ。サンビア族の住む地域だ。サンビア族はパプアニューギニアの山岳地帯にいくつか部落を作って、単純農業を営んでいる。彼らのあいだでは、精液は男の性的能力の素(映画の主人公オースティン・パワーズの「モジョ」のようなもの)だと信じられているので、サンビア族の少年たちは、男らしく精力的な大人になるために、大量の精液を飲むことになっている。少年たちは、思春期に入ると、女人禁制の「男の家」に入る。そして彼らに、年上の少年たちが声をかける。「ほら、こうやるんだよ。これって効き目があるんだぜ!」こうして、それまでフェラチオをする側だった少年たちが、今度はされる側に回るのだ。

    では、サンビア族の成人男性に、ホモセクシュアルはどのくらいいるのだろうか? およそ5%だという。この率は、西洋社会のホモセクシュアルの率とほとんど変わらない。サンビア族の男性は、20歳を超えると、ほとんどがサンビア族の女性と結婚するという。彼らの部落で暮らしたことがある人類学者のギルバート・ハートはこう述べている。「彼らにとって、少年時代のことは楽しい思い出になっている。でも、彼らがほんとうの性欲を抱く相手は女性なのだ」

    このふたつの「自然の実験」は、僕たちに何を教えているだろうか? どちらの実験も同じ結論を示している。人が男と女のどちらに性欲を抱くかは、何か本能的なものによって決まる、ということだ。人間性を形成する時期に、社会から特定の性行為に関わるよう促されたとしても、それによって大人になったときの好みが決まるとは限らない。確かに僕たちは、女性の性的欲望についてはまだ調べていない。女性は男性とは違ったしくみになっている可能性がある。男性のその他の性嗜好のなかに、社会環境によって刷り込まれたものがある可能性もある。それでも、男性が男女のどちらを好むかという基本的な嗜好は、社会環境とは無関係のようだ。僕たちが性的欲望を完全に理解するには、僕たちの脳に組み込まれたソフトウエアのしくみを知る必要があるだろう。

    文:ニューズウィーク日本版ウェブ編集部


    『性欲の科学――
     なぜ男は「素人」に興奮し、女は「男同士」に萌えるのか』

     オギ・オーガス、サイ・ガダム 著
     坂東智子 訳
     CCCメディアハウス