開業直後の緊急事態を乗り越えた3人のシェフ。彼らを襲った空白の2カ月とは。

  • 写真:鈴木奈保子
  • 文:岡野孝次

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新型コロナウイルス感染拡大で、窮地に立たされた飲食業界。どの料理人も未だ大きな苦境の中にいるが、「2020 年こそ飛躍の年」とオープンに踏み切った新店のシェフの不安や失意の深さは、想像に難くない。その逆境を乗り越えて、次なる一歩を踏み出そうとする新鋭たち。4月からの苦悩と、それぞれが思い描く未来をレポートする。

馬堀直也(まほり・なおや)●パリ郊外の街・フォンテーヌブローとロンドンのレストランでの修業経験がある。麻布十番の人気レストラン「カラペティ・バトゥバ!」のシェフを経て、2019年12月、東麻布に「ユヌパンセ」を開業。

空白の2カ月を疾走した、ユヌパンセ(赤羽橋)の馬堀シェフ

「なんのために自分で店を開いたのか。初心を見失ってしまいそうでした」。苦笑いを浮かべながら、「ユヌパンセ」の馬堀直也シェフは、緊急事態宣言以降の日々を振り返る。フレンチの世界に飛び込んで25年、パリ近郊のレストランやイギリスの星付き店でも修業を積んだ。2019年2月末に麻布十番の人気レストラン「カラペティ・バトゥバ!」のシェフを辞め、開店準備にいそしむこと10カ月、満を持しての開業だった。

ワイン1杯から利用できる気安さと、美しく実直な味わいのフランス料理で、すぐに客の心をつかんだ馬堀シェフ。新型コロナウイルスが目に見える脅威となっても、3月末までは満席の日も珍しくはなかった。「けれども、志村けんさんの訃報で潮目が変わった気がします。キャンセルが相次ぎ、客足もパタッと止まりました」。トドメを刺したのが、4月の緊急事態宣言だ。

「見たことのない売り上げの日が続きました」。ならば辛かったのかといえば、しんどい、大変という気持ちはなかったという。「生きるのに必死で、記憶がないんです。自分がオーナーなので、家賃の支払いや相方(ソムリエ)の生活も考えなければなりません。売り上げを立てるために苦悩しました」。4月下旬以降、東京都の要請の範囲で店内営業をしながら、シャルキュトリーとワインのテイクアウトも開始する。

「盛り付けや食材の香りも意識して、お店で一皿ずつ提供するのが料理人という信念があるため、テイクアウトを販売するか否か、ギリギリまで悩みました。持ち帰ったお客さんが、どう食べるかを想像できないから、いまでも『これで喜んでくださるのかな?』と迷いながらつくっています」

しかし仕込みに、一切の妥協はない。結果、店内営業に加えて、約10種のシャルキュトリーも調理することになって、多忙を極めた馬堀シェフ。日々の疲労と緊張で胃腸が弱って、病院にかかる羽目になった。身体も悲鳴をあげたからこそ、この2カ月の記憶が無に近いのだ。

またもうひとつ、馬堀シェフを苦悩させたのがアボカドの問題。スペシャリテ「ズワイガニとアボカドのムース ウニとコンソメのジュレ」が提供できなくなった。「アボカドは足が早いんです。お客さんの数が読めないなら、メニューに載せられません」

それでも、味わいが近い料理をと生まれたのが、「ホワイトアスパラガスのムース オマール海老とコンソメのジュレ ウニと初夏の野菜」。コンソメゼリーとムースは、スペシャリテと同じ組み合わせだ。「実はアボカドの皿と味わいが被るので、いままではメニューに加えられなかった。ずっと提供したかった料理が、このタイミングで出せたのはうれしい誤算でした」

空白の2カ月を振り返ると、彩りをもって浮かび上がるのが、来店する人の笑顔だ。特に常連客の言葉には励まされた。「当然ですが、いろいろな方に支えられていることに気づきました」。その感謝の思いを料理で伝えたいと、馬堀シェフはいま、真に惚れ込む素材、栃木・小川農園の野菜を使った新作づくりに没頭中だ。苦難の2カ月を乗り越えて、自店で迎える初めての夏。まっすぐな味わいのフレンチは、さらに輝きを増しているだろう。

「ホワイトアスパラガスのムース オマール海老とコンソメのジュレ ウニと初夏の野菜」¥1,500(税込)。すべての素材の旨味が重なった時の口福感たるや。焼いたオマールの殻、野菜、卵白を入れて引き直すコンソメは、完成まで3〜4日かかる。フランス・ロワール産ホワイトアスパラガスのほろ苦くも優しい甘み。料理は基本、週替わり。

逆境で期間限定メニューを考案した、ウィル オ ウィスプ(幡ヶ谷)の光安シェフ

光安北斗(みつやす・ほくと)●フランス旅行の際に初めて訪れたレストランで、料理のおいしさに感激した光安シェフ。その店が最初の修行先、草創期の「パッサージュ53」(後の星付きレストラン)で、ニューヨーク「バタースビー」での料理人経験も。世界中を渡り歩いた経験から、フレンチをベースに、メキシコ、ポルトガル、ブラジルなどの調理法も取り入れる。

「凹みますよね。団体客のキャンセルが入っても、誰も責められないんですから」。光安北斗シェフは、料理の修行でパリに滞在していた2015年に、同時多発テロに遭遇した。「あの時も一時的にフランスの経済が沈みました。けれども今回のパンデミックは桁違いの影響力です。なにより怒りの矛先を見つけられないのが、辛すぎます」。パリとニューヨークの有名店で腕を磨き、代々木公園の人気ビストロ「パス」で立ち上げから3年ほど働いて、今年2月に自店を開業。まだ30代前半と若いながらも、周囲の期待は大きく、オープン直後から客足は上々だった。

しかし開店してわずか1カ月半で、緊急事態が訪れた。「判断に迷って、4月上旬に少しだけ店を閉めました。けれども思い悩んだところで、新規事業主の僕には前年度の実績がなく、国の持続化給付金は申請できない(※5月末に国の指針が変更され、2020年度の新規事業主にも受給資格が与えられた)。従業員は僕を含めて3人、生きていくには、店を営業するしか選択肢がなかったんです」。幸い店舗は、ニューヨーク・ブルックリンの倉庫のように天井が高く、換気のしやすいつくりだ。都の要請の範囲で、席数を減らして店内営業もしながら、テイクアウトの販売も始める。

「ただ4月の間は、店内飲食のお客さんがほとんど来なかった。加えて『このご時世に、営業する店は悪者だ』という社会の目もありました。なぜ店を開けるだけで、罪悪感に苛まれなければならないのだろうと、毎日心が折れそうでした」。それでも4月下旬から常連や知人が顔を出すようになり、近所のお店の紹介で徐々に客足が戻ってくる。

夜はスペシャリテ「白石牛のカツレツ」などを中心に、メニューの数を半分に絞って営業。一方で、テイクアウトもできるランチの提供を始めた。「白石牛のカツレツ」をボリュームそのまま、お値段は2分の1で挟んだサンドイッチが人気だ。またインド流「バターチキンカレー」やタイ風「グリーンカレー」は、フレンチに軸足を置く光安シェフには意外な品書きに思えるが、「パリもニューヨークも、人種のるつぼ。いずれもネイティブの友人に教えてもらった味です」。最近はディナーでボロネーゼパスタを出すが、今度はこれをヒントにムサカ(ギリシャ風グラタン)を提供したいと考えている。

「ディナーもテイクアウトも、新しいメニューを考えるのは楽しい。カレーやパスタは、いまだけの提供になる可能性も高いので、後々『あれ、おいしかったなぁ』と、振り返ってもらえるとうれしいです」。週末はランチを定番化するなど、新しい日常に向けた展開も考案中。20代の大半を海外で過ごした光安シェフは、その軽やかな感性で、さらなる高みへと疾走を始めている。

「白石牛のカツレツ」¥3,740(税込)。「抜群においしい牛肉なので、親しみやすい調理法で提供したかった」。フレンチの料理法からカツレツをチョイス。肉の旨味を最大限に活かすべく、塩コショウのみの味つけ。ソース代わりの焼きリンゴはデフォルトで、5月は春キャベツを添えて提供した。

自身のスタイルを貫いた、笠井(都立大学)の笠井篤シェフ

笠井篤(かさい・あつし)●料理人を志して以降、イタリアンひと筋。ミラノやベローナで2年ほど修業を積んだ後、代官山の薪焼きイタリアン「タクボ」を経て独立。2019年12月に開業した「笠井」は日替わりコースのみの提供で、中華などイタリアン以外の料理法も駆使する。

「グラス用に空けたワインが余ってしまうから、僕の酒量がグッと増えました」。飄々と語る笠井篤シェフ。ペアリングコースではイタリア産を中心に8種ほどのグラスワインを提供するが、感染症対策で4月は1日1組、5月も2組の営業で、どうしてもロストが出てしまう。客が入らない日も多かった。「昨年12月に開店して、これからという時でした。けれども、しょうがないですよね」

予約の取れない薪焼きイタリアン「タクボ」出身ということで、開店早々、注目を集めた。加えて、こちらも伝説的な人気を誇った中国料理レストラン「チャイニーズレストラン わさ」の物件をそのまま引き継いでオープンしたことも話題に。居抜きで残った中華厨房を活かして、ときにはイタリアンのコースに春巻を組み込む、大胆なメニュー構成が評判にもなった。駅から徒歩10分以上の立地にもかかわらず、3月は満席の日も目立つように。しかし新型コロナウイルス感染拡大の波には抗えず、その後の客は8割がキャンセルになってしまう。

「誰も経験したことのない緊急事態に、自分ひとりで焦っていても仕方がないです」。とにかくいまは新しいことには手を出さず、事態が収束するまで耐えようと決めた笠井シェフ。「昔から相当な慎重派だったので、とにかく身の丈にあった開業でした。ここは都心の一等地ではないために家賃も控えめで、僕ひとりなら、なんとか食べていけると思いました」。自分の納得した料理を提供できないからと、テイクアウトも販売しなかった。「やはり初めての僕の料理は、お店のカウンターで食べてほしいから」。懐事情を鑑みながら、譲れない信念は貫いた。

休業せずに店を開けたのは、生産者を思っての行動でもあった。「長崎・五島列島の旬魚をカルパッチョなどで出しますが、予約が入らなくても必ず取り寄せます。余れば自分で食べればいい。買わないという選択肢はないです」。しんどいのは、みんな同じ。多少は無理をしても、生産者とのつながりを大切にしたいと話す。

そしていま、笠井さんは得意の手打ちパスタを極めようと勉強中。4月以降に時間ができて、自家製粉機をいじる余裕が生まれたからだ。「これで粉を引いて、タリオリーニを完成させます。挽きたては風味が素晴らしいのですが、まだ食感やのど越しが足りないと感じています」。6月中には提供を開始したいと密かに意気込む笠井さん。いまできることをコツコツと、シェフの平熱が生むひと皿が待ち遠しい。

タリオリーニは笠井さんが得意な手打ちパスタ。9,000円(税込)と6,000円(税込)のふたつのコースがある。「これを自家製粉パスタで出したい。小麦の風味が濃いので、さらにおいしくなるはずです」

ユヌパンセ
東京都港区東麻布2-19-2 酒井ビル 1F
TEL:03-5561-2939
営業時間:17時30分~24時L.O.
定休日:日(不定休あり)
https://unepincee.com


ウィル オ ウィスプ
東京都渋谷区幡ヶ谷1-33-2
TEL:03-5738-7753
営業時間:18時30分~24時
定休日:火曜


笠井
東京都目黒区八雲3-6-22
TEL:03-6421-3517
営業時間:17時~23時L.O.
定休日:水