カート・コバーンの生き様を投影する、グランジ・ファッションに欠かせないアイテム

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    カート・コバーンの生き様を投影する、グランジ・ファッションに欠かせないアイテム

    文:小暮昌弘(LOST & FOUND) 写真:宇田川 淳 スタイリング:井藤成一
    イラスト:Naoki Shoji

    第1回 ダメージジーンズ

    1967年、アメリカ・ワシントン州のアバディーンで生まれたカート・コバーン。2歳の時、早々と音楽に興味を示し、7歳の頃にはビートルズの『ヘイ・ジュード』を歌いながら近所を練り歩いていたという。しかし、両親の離婚をきっかけにカートは引きこもりがちな少年になってしまう。そんな彼が聴いていたのはブラック・サバス、レッド・ツェッペリンなどのロック。そこから、ハイスクール時代に知り合いからもらったパンクロックのテープがきっかけとなり、本格的に音楽の道を志していく。フィーカル・マターというバンドを経て、87年にクリス・ノヴォセリックらとともに伝説のグループ、ニルヴァーナを結成。90年にはメジャーデビューを果たし、セカンドアルバム『ネヴァーマインド』並びに収録曲の『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』が大ヒットする。注目されたのは音楽だけではない。カートが着ていたネルシャツ、穴の開いたジーンズといったラフな着こなしは、彼らの音楽性になぞらえて「グランジ・ファッション」と言われた。
    若くして一気にスターとなったカートだが、やがてドラッグや鬱病に苦しむようになり、94年、シアトルの自宅で自殺した姿が発見される。彼が亡くなったのは27歳。奇しくもジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョップリンなど、他のレジェンドたちが亡くなった年齢と一緒だ。今回は、彼の“生き様”をそのまま投影したような「グランジ・ファッション」の名品を紹介する。

    ナビゲーター/小暮 昌弘
    法政大学卒業。学生時代よりアパレルメーカーで勤務。1982年から(株)婦人画報社(現ハースト婦人画報社)に勤務。『25ans』を経て『Men’s Club』で主にファッションページを。2005年から2007年まで『Men’s Club』編集長。2009年よりフリーに。現在は、『Pen』『サライ』『Forbes Japan』などで活躍。

    ハリウッド ランチ マーケットのオリジナルジーンズ。代表作の「PP4XX」にウォッシュとリペア加工を施したもので、長く穿き込んだような風合いに仕上げている。¥35,200(税込)/ハリウッド ランチ マーケット

    カート・コバーンは普段着のようにパジャマを着ていた。その理由を尋ねられると「別に深い意味はないよ。パジャマは着心地がいいし、いつでも寝られるだろ。我ながら素晴らしい発見だと思うね」と、彼は答えていた。しかし、『病んだ魂』(マイケル・アゼラッド著・ロッキング・オン刊)に書かれているカートの母親ウェンディの話によると、「私の子どもたちはおそらくアバディーンでも一番きれいな格好をしていたはずよ。そうするようにしていたの」という。そういった幼少期の服装に対する反抗心が、後のスタイルの表れであったことはおそらく言うまでもないだろう。
    カートが着るジーンズはいつも、ボロボロの穿き古しだった。それがカートのスタイル、あるいは「グランジ・ファッション」の象徴となったわけだが、彼がわざとそういったジーンズを選んでいたとは思えない。愛用していた結果、穴が開いてしまったと考えるのが自然だ。
    カートが愛用したジーンズを彷彿とさせるジーンズをハリウッド ランチ マーケットがつくっている。「PP4XX ヴィンテージウォッシュド リペアドホールジーンズ」がそれだ。14.7オンスのデニムを使い、やや太めのテーパードシルエット。ロールアップした時にアクセントになるよう赤耳付きのデニムが使われている。ウォッシュとリペアの加工は手作業で、穿き込んだようなデニムの風合い、穴の開いた膝部分が、カートが穿いていたジーンズと似ているではないか。

    フロントはクラシックなボタンフライ仕様。腿のあたりのいわゆる「ヒゲ」加工も、穿き込んだ経年変化のような味わいをよく表現している。

    ジーンズの内側に付けられた織りネームには「MADE BY KOJIMA」と書かれている。このジーンズの生産は、世界的に有名なデニムの産地である、岡山県の児島で行われている。

    ジーンズのアイコンであるレザーパッチとヒップポケットに入った刺しゅう。レザーパッチには「WE NEVER CHANGE」と記されている。

    問い合わせ先/HOLLYWOOD RANCH MARKET TEL:03-3463-5668