岡本太郎による「太陽の塔」は、なぜ時を超えて愛されるのか。

岡本太郎による「太陽の塔」は、なぜ時を超えて愛されるのか。

写真:西岡 潔 編集&文:山田泰巨

岡本太郎による「太陽の塔」正面。塔の高さは約70m、広げた腕の長さは約25m、正面の顔は直径約12mにもおよぶ。

1970(昭和45)年3月15日から9月13日までの183日間にわたり、大阪府吹田市の千里丘陵で開催された日本万国博覧会。高度経済成長の最中に開催された昭和期の日本を象徴する国家的イベントは、いまも大阪万博の略称でよく知られる。その賑わいをいまに伝える存在が、芸術家の岡本太郎による「太陽の塔」だ。

2018年の大改修により閉幕以来、原則非公開であった内部の一般公開も始めた。昭和を代表する芸術的な建造物は平成の終わりに蘇り、いま再び令和を生きる人々を魅了する。3つの時代を超えて愛されるのはなぜか。

そんな太陽の塔を含むテーマ館に強い思い入れがあると語るのは、大阪府立大学教授の橋爪紳也さんだ。万博開催時は小学4年生ながら18回にわたって会場を訪れ、すべてのパビリオンを巡った。「パンフレットやバッジなどを集め、外国人のコンパニオンにはサインを求めるほど」だったと笑って振り返る。大学では万博を研究し、現在は都市文化と都市政策の両面から街づくりに関わる。25年に開催を予定する大阪万博の誘致にも尽力した。

「日本では明治期から万博を開催すべきとの声があり、1940年に東京オリンピックとともに開催することで先進国として名乗りを上げようと考えていました。しかし戦争で開催を返上することとなり、戦後にようやくアジア初の国際博覧会を行った経緯があります。数十年をかけて実現した悲願は、入場者数6400万人超という大きな記録を打ち立てます。まさに時代の象徴であり、戦後日本がひとつの到達点を迎えた瞬間。新たな技術が生活に伝播するきっかけともなり、人々はそこで未来そのものを見たのです」

内外に4つの顔をもつ「太陽の塔」。背面は過去を象徴する「黒い太陽」。顔部分は信楽焼の黒いタイル3000枚を用いて制作されている。

しかし実は太陽の塔が、博覧会のシンボルではないと橋爪さんは続ける。その真正面にあった菊竹清訓の設計による「エキスポタワー」こそが、本来のシンボルであった。太陽の塔は計画初期に予定されておらず、テーマ館のプロデューサーに就任した岡本が67年末に発表した計画案で、初めて存在が明らかになった。ここで岡本は、会場中心にある「お祭り広場」の丹下健三の設計による「大屋根」をぶち抜く「ベラボーなもの」をつくろうと考えたと述べている。

「他が最新技術を喧伝するなか、人の手でつくられたような太陽の塔はとにかく異質な存在でした。僕らは太陽の塔にどこか、生命をもつ構築物との印象をもちます。もともと顔をもつ樹木のイメージがあり、我々はそれを人のように認識している。子どもたちは太陽の塔を描くと人にたとえ、歩き出し、家族を描いたりする。鑑賞する芸術作品を超え、人々の感性に訴えかけて親しみやすく、想像を刺激する存在。だからこそ近未来的な建築物との対比で、非常に人気が出たのでしょう。結果として博覧会のシンボルとなり、人々の要望で保存され、半世紀を経て登録有形文化財となった。日本の戦後復興から高度経済成長へとたどる物語を背負うモニュメントとなったのです」

岡本が塔に与えた展示テーマは「生命のエネルギー」だ。原始的な生命の世界を表現する地階に始まり、エスカレーターで当時の研究に基づく進化の系統樹をたどり、その先に未来都市の展示を見るというものだった。空間的な上下移動とともに暗闇から光差す空中に至り、過去から未来へ経て、現在に戻る。SF少年であった橋爪さんにとってそれはまさに「空想科学小説の世界」の体験であった。

「遥か昔にタイムトラベルをして未来に至り、最後は地上に降りて現在に戻るという時間旅行だったのです」

進歩主義に疑問を投げかけた岡本は、生命の根源というテーマで不変の魅力を提示した。図らずも、昭和の大事業は岡本の強い思いによって永続性を得たのかもしれない。


太陽の塔

●大阪府吹田市千里万博公園 万博記念公園内
TEL:0120-1970-89
開館時間:10時〜17時 ※最終受付は閉館の10分前
休館日:水、年末年始
料金:一般¥720(税込、別途自然文化園入場料が必要) ※前日までに要予約
https://taiyounotou-expo70.jp


岡本太郎による「太陽の塔」は、なぜ時を超えて愛されるのか。