「野生のオオカミと交流」するピアニストが奏でる、霊性と野性に満ちたメッセージのような音楽。

  • 文:赤坂英人

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『メッセンジャー』エレーヌ・グリモー 483-7853 ¥3,300(税込)ユニバーサル ミュージック。ジャケット写真は、森の中に佇むエレーヌ・グリモー。ドイツロマン派を得意とするグリモーらしいビジュアルだ。収録されているのは、来年生誕260周年となるモーツァルトと現代音楽の作曲家ヴァレンティン・シルヴェストロフの作品。

現今、世界にはさまざまな個性やスタイルをもつ優れた音楽家がいる。しかし、哲学者のような知性と直感、そして野生の狼と交流できる感受性をあわせもち、現代的意匠のコンセプト・アルバムを次々と送り出すピアニストといえば、エレーヌ・グリモーをおいてほかにない。その彼女が待望のニューアルバム『メッセンジャー(使者)』をリリースした。2021年が生誕260周年にあたるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと、ウクライナの前衛と呼ばれた現代音楽の作曲家ヴァレンティン・シルヴェストロフの楽曲を組み合わせたアルバムで、その斬新な構成について「私はいつも予想できない組み合わせやカップリングに興味がある」とグリモーは言う。


グリモーは、フランスのエクス=アン=プロヴァンスの言語学者の家庭に生まれた。13歳でパリ国立高等音楽院に入学。84年に15歳でCDデビュー、翌年セルゲイ・ラフマニノフのピアノソナタ第2番の録音でモントルーのディスク大賞を受賞。87年、ダニエル・バレンボイム指揮のパリ管弦楽団と共演。以後、世界各国の主要オーケストラと共演して成功を収めた。一方で、91年にアメリカに移住。フロリダで隣人の元ベトナム帰還兵が飼っていた雌オオカミ・アラウと運命的な出会いをする。オオカミと交流した彼女は大学で動物生態学を学び、ついに99年、オオカミの保護施設「ニューヨーク・ウルフ・センター」を設立。現在はニューヨークを拠点に音楽活動している。


「プログラミングの段階で大半のコンサートの成否が決まる」と言った高名な指揮者がいたが、グリモーのアルバムには、いつも魅力的なコンセプトやテーマがその楽曲構成に潜んでいる。今回のアルバムは前半がモーツァルトの曲だ。未完のニ短調幻想曲から始まり、ピアノ協奏曲第20番ニ短調、ハ短調幻想曲と続く。後半はシルヴェストロフの「使者(ピアノと弦楽のための)」「2つのディアローグとあとがき」と続き、再び「使者(ピアノ・ソロのための)」という構成だ。「使者」はモーツァルトを思わせるテーマで始まり、まるで全体が18世紀と現代をつなぐ「対話集」のよう。ポストモダンとも新古典派とも言われるシルヴェストロフは言う。「私は新しい音楽を書いているのではありません。私の音楽は既にある音楽への答えやこだまなのです」と。ふたりの組み合わせは、まさに過去と現在の対話であり、究極的には自分自身との対話である。2020年、人一倍鋭敏なピアニストであるグリモーが世界を覆うパンデミックを意識しなかった訳がない。彼女が奏でる森の中の静謐な生命力を感じさせる音楽は、過去と現在をつなぐメッセンジャー(使者)であり、同時に、いまを生きる私たち聞き手のひとりひとりへの、霊性と野性に満ちたメッセージそのものなのである。

エレーヌ・グリモーは幼い時から天才少女と言われたが、学生時代はひとりの友達もおらず、校庭の隅にうずくまっていたという。自傷行為、強迫的整理壁、ひきこもり症状などと闘う彼女を救ったのは、本と自然とピアノとオオカミだった。© Mat Hennek / Deutsche Grammophon