2Bの鉛筆を握って探り探り紙に向かう、田中慎弥の日々。

2Bの鉛筆を握って探り探り紙に向かう、田中慎弥の日々。

文:今泉愛子 撮影協力:カフェ・デ・マエストロ
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田中慎弥

作家

●1972年、山口県生まれ。2005年に「冷たい水の羊」で新潮新人賞を受賞しデビュー。08年、「蛹」で川端康成文学賞、同年『切れた鎖』で三島由紀夫賞受賞。12年、「共喰い」で芥川賞受賞。19年、『ひよこ太陽』で泉鏡花文学賞受賞。他の作品に『宰相A』など。

下関中央工業高校を卒業して以来、ずっと小説を書いてきた。デビューは32歳。芥川賞を39歳で受賞し、会見の「もらっといてやる」発言で一躍、時の人となった。田中慎弥は、孤高と形容されることが多い。デビューまで仕事に就かず、現在まで携帯端末を持たない生き方、会見でのぶっきらぼうな物言いからの連想だろうか。そんな田中が、初めて恋愛小説を書いた。主人公は、下関出身の携帯電話を持たない40代の小説家、「田中」だ。

「主人公を自分に重ねたのは、読む人がこれは作者の実体験なのかと想像することを、逆に利用しようと思ったからです」

高校生の主人公は、いつも本を読んでいる同級生の緑に惹かれている。文学を通じて緑との距離は近づいていくが、なかなか期待通りにはいかない。

「10代の恋愛は男が女を追いかけるというパターンが多いと思うんです。だけど、なかなか振り向いてくれない。自分自身、追いかけられた経験はないので、そういう当時の状況を思い出しながら書きました。苦い思い出も含めて、美化しているでしょうね」

甘酸っぱさがほどよいのは、現在は作家の主人公が努めて冷静に語るからだ。主人公に過去の恋愛を思い出させたのは、緑の娘の静。突然、主人公の前に現れ、母との間になにがあったのかと詰め寄る。ジェンダーにも敏感な、現代の女子学生の描写が見事だ。

「特に女性の視点を意識して書いたわけではありません。現代に生きる女性はこういうことを言いそうだと思って書いただけで、そういう問題について踏み込んで考えたことはないですね」

田中は、誰かが誰かを好きになるという恋愛小説の構図に、現在と過去を縫い込み、さらに文豪たちの生き方を重ねて、作品を仕上げた。

「影響を受けた作家たちですが、作品が好きで読んできただけで、作家の生き方を問いたいのではないんです。そもそも主義主張があって、極端に言えば書きたいことがあって小説を書いているのではありませんから。人物や土地についても思いを込めるのではなく、ただ描写する。毎回、目の前の紙を字で埋めなきゃ、締め切りを守らなきゃ、という意識のほうが強いです」

7時頃には起床し、生活リズムは基本的に崩さない。自身に課しているのは、毎日机に向かって書くこと。

「クリエイターのように才能のおもむくままに、という感覚は全然ないので、とにかく仕事としてやっていることを忘れないようにと」

小説を書く原動力はどこから湧いてくるのだろうか。

「他にできることがないからです。なにかの資格をもっているわけではないし、学歴が高いわけでもない。ただ小説を書くことだけは続けられたので。けれどもいま、自分が曲がり角に来たことを感じています。書けないことを認めたくはないですが、状況としてはそうです。これまでのようにとりあえず毎日机に向かう、というやり方自体が難しくなってきたのかどうか。探り探りやっています」

コロナ禍で気分転換もままならないが、本を読むことは続けている。

「自分はまだ文豪と呼ばれるようなすごい作家たちと比べればなにもやっていないと思うので、読む行為の中でいろいろ、考えてはいます」

2Bの鉛筆を握り紙に向かう日々を、もう16年続けている。


Pen 2021年3月1日号 No.513(2月15日発売)より転載


『完全犯罪の恋』

40代で独身、これまでの恋愛経験は4度。携帯もパソコンも使わない男性小説家の田中は、編集者と待ち合わせの場所で、若い女性と目が合う。彼女は意外な人物の名前を口にした。田中は、30年前の記憶をたぐりよせ、未熟な恋愛を振り返る。やがて記憶は、現在につながっていく。
田中慎弥 著 講談社 ¥1,760(税込)

2Bの鉛筆を握って探り探り紙に向かう、田中慎弥の日々。