バスキアの10代最後を、ともに過ごした若者の「声」。

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    『バスキア、10代最後のとき』

    サラ・ドライバー

    バスキアの10代最後を、ともに過ごした若者の「声」。

    最果タヒ詩人

    監督は『豚が飛ぶとき』などで知られるサラ・ドライバー。バスキアの元恋人であり、展覧会を開催したアレクシス・アドラー、ジム・ジャームッシュ監督、『プラダを着た悪魔』のスタイリスト、パトリシア・フィールドらの貴重な証言も見逃せない。©2017 Hells Kitten Productions, LLC. All rights reserved. LICENSED by The Match Factory 2018 ALL RIGHTS RESERVED. Licensed to TAMT Co., Ltd. for Japan. Photo by Bobby Grossman

    この映画は、バスキアが10代最後、共に過ごした人々へのインタビューと、当時のNYの映像で構成される。登場する人物はみな、当時の若者の憤りを通じてNYを思い返していた。たとえば、電車や壁に施されたグラフィティ。これが画廊には見向きもされず、アートとして認められなかったということ。けれど、私はどこかで、「アート界に認められなくても別によくない?」と思ってしまう。  
    彼らが感じていた「断絶」、それを私は本当の意味で理解することはできないのかもしれない。彼らは、決して、「声」を持つことができなかった。今の私達が、当たり前に持つ「声」を。  
    インターネット。個人アカウントが1億ビューを手に入れる時代。誰もが、世界に響く「声」を持っている、今の私達の時代。けれど、あの時代の若者たちには「声」は選ばれし者だけのものだった。発信者とそれ以外の間には、揺らぐことのない「境界線」が存在する。「アート界」といった権威も、それらを作り出す一要素だったのだろう。もちろん、世界に声が届かないなんていうのは、本来なら「普通」のことであるはずだ。ネットがある現代こそが、「全人類発信者」という状況こそが、異様なはず。けれど、思うこと、考えることに、人生を費やしてきた私達は、感情が身体の芯から、全身へと響き渡り、自らの人生を決定付けていくことを知っている。  
    すべてを支配するように蠢うごめく感情が外へ出ようとした途端、まったく届かなくなるというそのことに、本当は不満を抱いてもよかったはずなのだ。ネットがなかった時代、そんなことを望むのは馬鹿げていたのかもしれない。けれど普通なのだと諦めることだって本当は馬鹿げている。彼らはただ純粋に求め続けていた。「声」を。「伝える」ということを。私にはこれは、そんな映画に見えていた。

    『バスキア、10代最後のとき』
    監督:サラ・ドライバー
    出演:ジャン=ミシェル・パスキア、ジム・ジャームッシュ、パトリシア・フィールドほか
    2017年 アメリカ映画 1時間19分 12月22日よりYEBISU GARDEN CINEMAほかにて公開。
    http://www.cetera.co.jp/basquiat