“過剰なわかりやすさ”を求めて、私たちが失ったものは?

わかりやすさの罪

武田砂鉄 著

“過剰なわかりやすさ”を求めて、私たちが失ったものは?

今泉愛子 ライター


言葉でなにかを伝える時に、わかりやすさが過剰に求められるようになっている。受け手側が理解できない、あるいは理解が難しい場合、理解力不足ではなく、説明する側を責めることが増えた。ニュース番組でもわかりやすい解説が視聴率につながるとされる。
これまで一貫して世間の「当たり前」に疑義を呈し、人の思考回路に新たな道を提示してきたライターの著者が本書で論じるのは、こうした「わかりやすさ」についてだ。「あらゆる物事はそう簡単にわかるものではない」と断じ、わかりやすさを求めることでこぼれ落ちていくものを示す。
たとえば、あるテレビ番組が取り上げていた「一家の財布は夫が握るべきか、妻が握るべきか」というテーマでは、選択肢はふたつだけ。夫婦で管理することもできれば、それぞれ財布を別にすることも可能だが、そうした選択肢は、提示されない。わかりやすさが優先されたからだ。
一家の家族構成やそれぞれの性格、労働状況も含めて論じることで、より議論が深まり、新たな発見が生まれることもあるのだが、そんな手間は視聴者から求められていない。
著者は、あらゆる物事の背景は複雑に絡み合い、それに向き合う私たちの頭の中も複雑にできているのだから、複雑さに耐えられるようにしておいた方がいいと繰り返し説く。
わからない状況をそのまま受け入れよう。他人を完全に理解することはできないと知っていれば、他人の言動に不用意に苛つかずに済む。世界には、自分の理解がおよばないことがたくさんあると気付けば、学びの楽しさは広がっていく。
わかりやすさに甘やかされることなく、自らの頭で考え続けることで、思考する力が身に付くのだ。困難に直面した時に必要なのは、こうした思考の体力ではないだろうか。

『わかりやすさの罪』 武田砂鉄 著 朝日新聞出版 ¥1,760(税込)

“過剰なわかりやすさ”を求めて、私たちが失ったものは?