30代初期の初公開作も含む回顧展。

  • 文:赤坂英人

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『没後50年 河井寛次郎展』

パナソニック 汐留ミュージアム 

30代初期の初公開作も含む回顧展。

赤坂英人美術評論家

写真上から『三色打薬双頭扁壺』1961年頃、個人蔵。写真:白石和弘
『二彩双龍耳壺』1923年頃、山口大学蔵。写真:東郷憲志(大伸社ディライト)
『いのちの窓』より(詞句・複製)1948年頃、河井寛次郎記念館蔵。写真:東郷憲志(大伸社ディライト)
他にも、パナソニックの創業者である松下幸之助が求めた河井の陶芸品や、松下が河井を文化勲章に推薦した時、松下が河井に贈ったトランジスタラジオの同型品が特別展示されている。

人間国宝や文化勲章に推挙されながら、すべてを辞退して、ひとりの陶芸家として新たな造形に挑み続けた河井寛次郎。その仕事の軌跡をたどる回顧展が開催されている。京都の河井寛次郎記念館の所蔵品を中心に、初公開となる山口大学の所蔵品など、陶芸、木彫、書を網羅する大規模なものだ。 
河井寛次郎は1890年島根県能義郡安来町の生まれ。松江中学を卒業後、校長の推薦で東京高等工業学校(現、東京工業大学)窯業科に無試験入学。同校の後輩には、のちに生涯の友となる陶芸家の濱田庄司がいた。1911年、イギリスの陶芸家バーナード・リーチの新作展に感銘を受け、上野に住んでいたリーチを訪ねている。 
河井は同校を卒業後、京都市立陶磁器試験場に入り研鑽に努め、21年に初めての個展「第1回創作陶磁展」を開いた。中国や朝鮮古陶磁に学んだ作品は好評で「天才は彗星のごとく現る」と言われた。しかし河井は23年頃、高まる名声に反して自分の作品に疑問を感じ始める。今回初めて公開される山口大学の所蔵品は、方向性を模索していただろうこの時期のものが多く、きわめて興味深い。24年に河井は濱田から柳宗悦を紹介された後、その華麗な作風を変貌させ、実用を重視した作品を制作した。その後、柳や濱田らとともに「民藝運動」に参加し、日本民藝館の設立に尽力。戦後は独自の釉薬を用いた作品を制作し、より自由な造形活動を展開した。 
一方で、河井は生活の中から、独特の詩とも警句ともとれる言葉を生み出した。僕はその実践哲学ともいえる言葉に惹かれて彼の世界に興味をもった。「この世は自分をさがしに来たところ/この世は自分を見に来たところ/どんな自分が見付かるか自分」「新しい自分が見たいのだ――仕事する」。河井の足元にも及ばないが、改めてその世界に触れたい。

『没後50年 河井寛次郎展』
開催期間:~9/16 
パナソニック 汐留ミュージアム 
TEL:03-5777-8600(ハローダイヤル) 
開館時間:10時~18時 ※入館は閉館の30分前まで 
休日:水、8/13~8/15 
入館料:一般¥1,000(税込)
https://panasonic.co.jp/es/museum