【グランドセイコー、「夢」を追いかける9の物語。】Vol.8 誕生の地を象徴する、 雪白文字板の秘密。

  • 写真:宇田川淳
  • 文:迫田哲也

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日本の叡智と匠の技が生み出した、高精度で独創的な駆動方式「スプリングドライブ」。独自の道を切り拓いた技術者たちの声を聞き、そのイノベーションを紐解く。

日本国内のみならず、いまや世界規模でファンを魅了している腕時計ブランド「グランドセイコー」。ロングセラーの「信州の雪白」モデルは、スプリングドライブの故郷である塩尻の工房から望む穂高連峰の雪を表現した、白く美しい文字板をもつ。しかし、この文字板には、意外にも白い塗料が用いられていないという。クラフトマンたちはいかにして、この純白の文字板を生みだしたのだろうか。

「雪白」文字板は、どのように生まれたか。

現在の文字板工房のリーダー、白木智博(左)とクラフトマンたち。腕時計の「顔」をつくるこの工房、各工程で高度な職人技が要求される。

時計史上、エポックメイキングなムーブメントであるスプリングドライブが初めてグランドセイコーに搭載されたのは2004年。その次の年には通称「信州の雪白モデル」が発売されている。純白でざらっとした岩肌のようなテクスチャーをもつ文字板が特徴のこのモデルは、グランドセイコーを代表するモデルのひとつである。

スプリングドライブの故郷は信州の塩尻にある。塩尻は松本平の南端に位置し、複数の街道が交差する交通の要所で、列島の中央分水嶺もここを通り、日本海側と太平洋側から運ばれる塩の終点という意味で塩尻と名づけられたという。松本平の西方には北アルプスがあり、日本のアルピニズムの聖地である山々が壮大な屏風のように連なっている。

グランドセイコーに搭載されているスプリングドライブ・キャリバー9R65を裏側から見る。輪列から香箱へと続く部品のレイアウトは、信州 時の匠工房から眺める北アルプスの前衛となる常念山脈とその奥にある穂高連峰を模したものである。この山々は10月には冠雪し、白い頂は荘厳さを増す。

時計の顔である文字板でも、故郷を象徴する何かを表現することはできないだろうか。セイコーエプソン「信州 時の匠工房」に属する文字板工房、その前身にあたる「文字板ワークショップ」に、この課題が持ち込まれたのは2004年のことだった。ひとつのアイデアとして以下のようなものがあった。北アルプスの山々の山肌のような凹凸のある文字板を、そこに降り積もった美しい新雪を思わせる純白にしてはどうか。ムーブメントと同じく、スプリングドライブの故郷から望む山々の清らかで厳かな姿を表現しようというのだ。工房ではさっそく試作に取り掛かることにした。具体的にカタチにしてみなければ、アイデアはアイデアのままで終わってしまう。クラフトマンの腕の見せどころである。

「雪白」文字板誕生のきっかけとなった71年の56GSモデルと、文字板工房に保存されている「型打ちサンプル」。ユニークな雪白文字板は、アイデアとレガシーから生まれた。

工房には、過去の文字板の型サンプルが数十年分保存されている。アイデアに合致しそうな、凹凸の不規則な模様のサンプルがいくつかあったが、北アルプスの山々に積もり始めた雪を表現できるものかはわからない。しかし当時の工房のリーダーは1971年製と記録されているひとつの型サンプルを選んだ。その文字板がどんな腕時計に採用されたものかはわからなかったが、数十年前のデザインのため文字板の径が小さい。新しいグランドセイコーのために新しい金型が彫られることになった。具体的には、銅の電極型に工具を用いて手彫りしていく。それをスチール合金の型に転写し、プレス型をつくる。その型を使用し200トンの圧力で真鍮のプレートに打ちつけ、文字板の原型をつくる。

さて問題はこの原型を、いかに「純白」にするか、だった。白ならば白く塗ればいいわけではない。塗料は凹凸の稜線を隠し、谷間を埋めてしまう。かといって塗料を減らせば純白にならない。試行錯誤を経て、鍍銀(銀めっき)する方法が検討された。銀は可視光の反射率が金属中最大であるため、光沢がなければ白色になるためだ。鍍銀工程での溶液設計と電流密度、浴時間を調整しながら、発色と細部の質感を変えない銀の厚さをミクロン単位で探っていく。試作した文字板は各スタッフから高い評価を得た。「白」を使わない純白の文字板の誕生である。そのようにして80を超える工程数の文字板が、スプリングドライブを搭載したグランドセイコーの新しい顔になり、のちに「信州の雪白」と名づけられ、ロングセラーモデルになったのである。凹凸の表面積はフラットなものより大きくなるので、さまざまな方向からより多くの光を受ける。この文字板が白より「白い」理由のひとつは光だろう。

美しい文字板を実現する、高度な技術。

インデックスを雪白文字板に取り付ける。アクリル製の専用ピンセットは、クラフトマンが自分で作り、毎日、調整を繰り返す。

文字板工房は、金型からプレスで文字板の原型をつくり、めっきや塗装などを施し、切削や穴開け加工をしてから、文字を印字し、ロゴやインデックスなどを手作業で取り付ける。それぞれの分野にそれぞれのクラフトマンがいて、ほとんどの工程に熟練した技が要求される。

たとえばインデックスは、鏡面に磨き上げられた小さな部品を手作りのアクリル製ピンセットで傷つけぬように柔らかく、しかし、しっかりとつまみ上げ、直径0.3mmにも満たない小さな穴にインデックスの「足」を確実に納めていく。この時、穴はつまんだ部品で隠れて見えない。あくまで勘で置いていく。素人では部品をつまむことすら難しい。その他の工程も同様で、グランドセイコーの顔をつくるには、さまざまな分野の匠がそれぞれの仕事を高い水準で進めていかなければならない。そのために必要な分野の職人を育て、高度な技の開発と継承を図ることも文字板工房の仕事だといえる。

ところで「雪白」文字板誕生のきっかけとなった1971年製の文字板サンプルは、その後、当時のグランドセイコーのものであることがわかった。通称56GSと呼ばれた、諏訪精工舎(現セイコーエプソン)が製造した機械式グランドセイコーのモデルのひとつで、円形ではなくトノー形をしており、文字板は白ではなくゴールド色に仕上げられ、ケースは18Kイエローゴールドで文字板と同じく岩肌のような模様が表現されている。

「信州で生み出されたスプリングドライブ」を搭載するグランドセイコーを象徴する文字板の誕生のきっかけとなったサンプルが、34年前に諏訪精工舎が手がけたグランドセイコーのものだった。誰もが「不思議な偶然」というが、もしかすると真鍮の文字板サンプルは、グランドセイコーという名の、見えないオーラを放っていたのかもしれない。

型打ち、切削、めっき、印刷、ロゴ・インデックス植えなど各工程を示すサンプル。一枚の真鍮プレートが「雪白」になるまで80を超える工程が必要である。

信州の雪山に、時は流れる。

2005年10月。北アルプスの山々の頂が白く染まるころにスプリングドライブ「信州の雪白」モデルは誕生した。ヘアラインと鏡面に仕上げ分けられたケースの素材にはブライトチタンが採用されている。驚くほど軽く、傷つきにくいという特徴があるが、その研磨にはステンレスとは異なる難しさがある。


Grand Seiko SBGA211

未踏の雪原のような純白の空間をテンパーブルーの秒針が流れるように進む。スプリングドライブ独特の動きである。ケースは正々堂々としたフォルムだが、ブライトチタンのため意外なほど軽く、腕にフィットする。重厚でありながら軽快であることもロングセラーの理由のひとつだ。キャリバー9R65搭載。自動巻スプリングドライブ、ブライトチタンケース、ケース径41.0mm、620,000円+税

※価格は2019年11月現在のメーカー希望小売価格(税抜き)を表示しています。上の商品は、グランドセイコーブティック、グランドセイコーサロン、グランドセイコーマスターショップでのお取り扱いになります。