【グランドセイコー、「夢」を追いかける9の物語。】Vol.5 手巻ムーブメントが実現した、美しきスプリングドライブ。

  • 写真:宇田川淳
  • 文:迫田哲也

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日本の叡智と匠の技が生み出した、高精度で独創的な駆動方式「スプリングドライブ」。独自の道を切り拓いた技術者たちの声を聞き、そのイノベーションを紐解く。

日本国内のみならず、いまや世界規模でファンを魅了している腕時計ブランド「グランドセイコー」。生誕20周年を迎えるスプリングドライブに、これまで以上に腕になじみ、美しいモデルをつくろうと、よりコンパクトなムーブメントを開発した時計師たちの軌跡をたどります。

美しい心臓をもつ、美しいグランドセイコー。

手巻スプリングドライブモデルの開発を率いた高橋理(左)と星野一憲(右)。高橋はエンジニア、星野はデザイナーだが、ともに担当領域を超えて時計づくりに取り組む「時計師」である。

1999年に生まれたスプリングドライブは2019年で二十歳になる。20年前に初代ムーブメント開発チームを率いた高橋理を再びリーダーとして、2種類の手巻スプリングドライブ・ムーブメントを搭載したグランドセイコーが発表された。

そのテーマは明確だった。持続時間、正確さ、見やすさ、品格、耐久性、耐衝撃性、なにひとつ犠牲にせず、よりコンパクトなムーブメントを開発し、腕になじむ、美しいグランドセイコーをつくろうというのだ。高橋はまず持続時間を確保するための新機構の開発に取りかかる。デュアル・スプリング・バレル。動力源であるぜんまいをひとつの香箱にふたつ内蔵することで、持続時間を長くする。このコンパクトなムーブメントにはふたつの香箱を収めるスペースは確保できないし、ふたつ以上の香箱ではどうしてもエネルギーのロスが発生してしまうからだ。

そして新しいスプリングドライブキャリバー、9R02と9R31が生まれる。9R02にはデュアル・スプリング・バレルだけでなく、トルクリターンシステムという高橋が発明したもうひとつの機構も組み込まれた。9R02はマイクロアーティスト工房で、9R31は匠工房でつくられるという違いはあるが、両者は兄弟であることに変わりはない。

ところで高橋は、この機会にあることを目論んだ。マイクロアーティスト工房のメンバーは名人クラスの時計師たちだが、そこで培われた技を、技能五輪のメダリストも働く匠工房の時計師や部品製造を担当する技能者たちに継承してもらおうというのだ。1年間のプロジェクトを通じて、両工房のメンバーたちと具体的な技術を煮詰めていく。一流の腕時計は、美しいムーブメントを内に秘めている。高いスペックを実現すると同時に、工芸品の美しさを併せもつ兄弟ムーブメントをつくるために、高橋は時計師や技能者たちを鼓舞したのだった。

左がマイクロアーティスト工房によるキャリバー9R02、右が匠工房で組み上げられるキャリバー9R31。それぞれ固有の美しさをもっている。

デザインを担当した星野一憲は、手描きの線でイメージを伝える。コンピューターでデザインすると「機械的な匂いのする造形」になってしまうので、技能者たちと試作を繰り返しながら意見を交わし、現場で加工することで最終的な意匠に収斂させていくのだという。星野にとって、今回のデザインのテーマのひとつは「自分のためにつくられた、と思ってもらえる腕時計」だった。この時計のラグ(かん足)は、曲面で構成されている。シンプルに見えるが曲率は一様ではなく連続的に変化している。「卓上に置くのではなく、自分を含めていろいろな人の手首に試作品を載せてみる。それを繰り返し、やっとこのかたちが決まりました」と星野はいう。手首の太さの違いを超えてしっくりなじむかたちにたどり着くまで、一切妥協しなかった結果が、このデザインということになる。

この曲面を歪みなく鏡面に磨き上げるためにザラツ研磨が必要になるが、平面へのザラツとはまた異なり、高度な技を研磨の技能者たちに要求する、いままでにない工夫が必要だった。

高橋は星野にデザイン上のオーダーをひとつした。それは、このムーブメントをできるだけ見せること。手巻で、パワーリザーブ表示も裏にあるので、持ち主は時計の裏を見ながらりゅうずを巻くことになる。その時にただムーブメントが見えるのではなく、数百の部品を固定する「受け」の全体が見えるように。それは時計師たちの卓越した技を、りゅうずを巻き上げるたびに堪能できるようにする、という意味だ。美しいムーブメントをもつ美しいグランドセイコーが生まれるまで、そこに注ぎ込まれた高橋、星野を含む時計師たちのエネルギーの総量を想像すると、思わず気が遠くなる。

ほどけながら巻き上がる、ぜんまいの魔法。

「トルクリターンシステム」は、2008年に「クレドール 叡智」用ムーブメント、キャリバー7R08の中で開発された。それをキャリバー9R02のために改良して、フル巻き上げの状態から約48時間、精度と運針に影響のない約30%の力を使って、ぜんまいがほどける力でぜんまい自らを巻き上げる。この機構と「デュアル・スプリング・バレル」でキャリバー9R02は約84時間の持続時間を実現した。

この革新的なメカニズムは高橋理の頭の中に最初から「図」として現れたという。細部を詰めて試作すると、期待通りに動くことが確認できた。その後、摩擦を減らす手作業を施すと、目的の数値が達成できた。エポックメイキングなぜんまいの機構が、スプリングドライブに誕生したことは感慨深い。

縁と穴、その仕上げの美しさに息を呑む。

手作業で磨き上げられた「入角(いりかく)」と呼ばれる鋭角部。細部に至るまで入念に仕上げられている。

腕時計を動かす歯車は、軸の片方を「地板」に、もう一方を「受け」によって保持されている。地板と受けの間のわずかな空間で数百の微細な部品が回転したり、力を貯めたり解放したりしているのだ。写真のキャリバー9R02では、大きな受けはいちど鏡面に磨き上げてから切れ目のない精緻な筋目を入れている。仕上げの達人による手仕事は、もちろんそれだけにとどまらない。受けの縁をポリッシュして仕上げる作業を「面取り」と呼ぶが、鋭角に切れ込んだ面を、高山植物の茎で鏡面に磨いていく。そして歯車の軸を受ける「石」やねじ穴の周囲も美しく鏡面に仕上げる。筋目による落ち着きと鏡面による煌き。それがこのムーブメントに、世界最高レベルの工芸美を与えているのだ。

可能性をひらいた、優美な手巻。

2019年7月、スプリングドライブ20周年を記念した、手巻のグランドセイコーが発売された。そのうち2モデルをご紹介するが、ケースのデザインは共通。手巻、薄型という新しい領域へ挑むことで、グランドセイコーのスプリングドライブモデルの造形に「優美」という新しい可能性がひらかれている。

Grand Seiko SBGZ003(左)

12時位置にあるグランドセイコーのロゴが彫り込まれているのは、これによって針の位置をわずかでも低くするため。ケース厚10ミリを切る薄さを実現した。ケースはプラチナ950、時分針とインデックスは14Kホワイトゴールド。デュアル・スプリング・バレル+トルクリターンシステムのキャリバー9R02搭載。手巻、プラチナ950ケース、ケース径38.5mm、厚さ9.8mm、6,000,000円+税

Grand Seiko SBGY002(右)

風紋の刻まれた雪をイメージした、独特なダイヤル。信州の山々に積もった雪をイメージさせるこの文字板は「雪白(ゆきしろ)」と名付けられ、海外では「Snowflake」の名で呼ばれている。デュアル・スプリング・バレルで約72時間駆動を実現したキャリバー9R31搭載。精度は月差±15秒。手巻、18Kイエローゴールドケース、ケース径38.5mm、厚さ10.2mm、2,800,000円+税

※価格は2019年8月現在のメーカー希望小売価格(税抜き)を表示しています。
上(左)の商品は、グランドセイコーブティック、グランドセイコーサロンでのお取り扱いになります。
上(右)の商品は、グランドセイコーブティック、グランドセイコーサロン、グランドセイコーマスターショップでのお取り扱いになります。