【グランドセイコー、「夢」を追いかける9の物語。】Vol.4 究極の技術が注がれた、稀有な美しさの8日巻。

  • 写真:宇田川淳
  • 文:迫田哲也

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日本の叡智と匠の技が生み出した、高精度で独創的な駆動方式「スプリングドライブ」。独自の道を切り拓いた技術者たちの声を聞き、そのイノベーションを紐解く。

日本国内のみならず、いまや世界規模でファンを魅了している腕時計ブランド「グランドセイコー」。高精度ムーブメントのスプリングドライブを極めるべく、技術者たちは8日巻というロングパワーリザーブを搭載、さらにこの技術にふさわしい品格を創造しようと挑みます。


“贅沢な仕事”が生む、心が浮き立つ腕時計。

セイコーエプソンのマイクロアーティスト工房に所属する茂木正俊。開発設計者としてのキャリアのほとんどすべてを、スプリングドライブとともに歩んできた。

「メカニズム」が大好きな青年がいた。クルマにもバイクにも興味があったが、人が身につける唯一の機械は腕時計だ。その腕時計をつくりたくて、セイコーエプソンに入社した。1993年のことだった。翌年、ある新機構の試作品を目にして一目惚れしてしまう。ぜんまいで動く機械式水晶時計だった。

後にスプリングドライブと呼ばれるその機構の開発は公式には中断されてしまうが、彼は先輩技術者と研究を続けた。1997年に改めてプロジェクトが開始されるとチームに参加し、初代ムーブメントの誕生に立ち会うことになる。

その時計技術者の名は茂木正俊。入社して数年の期間を除いて、一貫してスプリングドライブに取り組んできた。彼が所属する「マイクロアーティスト工房」に、スプリングドライブを搭載したグランドセイコーをつくる話が持ち込まれたのは2013年。「実用性能を重んじるグランドセイコーにふさわしい高精度ムーブメントのスプリングドライブ。その本質を極めてみようと思いました」と茂木は言う。「腕時計の精度は、使い続けてある瞬間にふと気づくものです。ということは動き続ける時間は長いほうがいい」。グランドセイコー専用のスプリングドライブ、キャリバー9Rは72時間(3日間)駆動を達成していたが、それをもっと長くするというのだ。

現代人の生活は1週間単位。そこに1日分をプラスして、8日間動き続けるグランドセイコー。動力ぜんまいを収める「香箱」を3つ、ムーブメントに組み込めば可能だ。茂木は設計に取りかかると同時に、各部門のエキスパートたちに声をかける。たとえば設計案を「現代の名工」中田克美に見てもらう。すると中田の頭の中ではその平面図は直ちに立体に変換され「この胴付き(歯車の軸の付け根)を1/100mm太くすると組み立てやすくなる」など貴重なアドバイスが次々に出てくるのだ。

キャリバー9R65では輪列で北アルプスの山々を表現したが、この9R01では信州の高原から望む富士と諏訪の夜景をイメージした。高みを目指す思いを込め富士山を受け部品で、水を貯える力をもつ諏訪湖をパワーリザーブで、人の営みとなる夜景をルビーやねじのきらめきで表現した。

3つの香箱(バレル)を内蔵し、8日間動き続ければすでに稀有なムーブメントといえるが、茂木たちはそれで満足しようとはしなかった。この特別な機構を組み込むムーブメントそのものの造形美と、それを搭載する腕時計にふさわしい品と格を創造しようと考えたのだ。

完成したキャリバー9R01ムーブメントを眺めると、まず1枚の大きな「受け」が目に入る。地板とともに部品を支える役割を担うこの受けは、キャリバー9R01の目印ともいえる。美しく刻まれた筋目は熟練した時計師の手作業によるものだ。シンプルであるのに、匠の技が惜しみなく注ぎ込まれたディテールに眼を奪われる。8日間パワーリザーブの表示もここにある。これは、この腕時計の持ち主だけが楽しむことができる、もうひとつの「顔」なのだ。

ケースのデザインはもちろんセイコースタイルに基づいているが、「プラチナ950」という素材が用いられた。95%のプラチナに他の素材を5%加えることで、プラチナ特有の美しさを損なわず硬度を高めている。そしてこのプラチナを超鏡面仕上げするために、従来のザラツ研磨とは異なる新しい仕上げも開発された。プラチナはステンレスより柔らかいが、その研磨にはケースの面形状によってはステンレスの10倍ほどの時間が必要になるという。

信州の時計づくりのさまざまなプロフェッショナルたちが思う存分腕を振るう贅沢な仕事が、このグランドセイコーをつくっている。「たとえば雑誌に高性能で贅沢なクルマが載っていると、たとえ買えなくても心が浮き立つ。そういう腕時計があってもいいし、それを日本でつくってもいいのではないかと思いました。もちろんいつか手に入れられれば、それがいちばんいいのですが」と茂木は言った。

「マイクロアーティスト工房」とは。

組み立てに取り組む中田克美。複雑なムーブメントを組むために工具類は使いやすく加工し、磨きあげる。

マイクロアーティスト(MA)工房はセイコーエプソンが誇る工房で、ムーブメントや外装の設計、磨きや組み立てなどのエキスパートたちの仕事場である。キャリバー9R01の開発から参加した時計師の中田克美は、その組み立てを「美しく磨かれた部品を傷つけないよう注意は必要ですが、設計案の段階でこちらがやりやすいように考えてもらっているので、想像するほど難しくはありません」と言う。「現代の名工」であり黄綬褒章も受章した中田の発言なので割り引いて聞かなくてはならないが、設計から開発までを統括した茂木正俊と机を並べる、つまり異なる分野の専門家たちが共同作業するこの工房は、高級時計だけでなく、専門家たちが互いの力を最大限に引き出す環境をも生み出しているといえるだろう。

「直結トリプルバレル」という、稀有な構造。

茂木によるトリプルバレル解説図。設計時は1/100mmという単位が用いられ、これをウオッチ単位という。

動力ぜんまいを内蔵する円形のケースは「香箱」や「バレル」と呼ばれ、直径1cmに満たない空間に全長数十cmの動力ぜんまいが収められている。この香箱には歯車がついており、ぜんまい駆動式時計の動力源であるため「一番車」とも呼ばれる。キャリバー9R65は72時間持続だから、同じ香箱を3つ積めば72×3で216時間になるはずだ。しかし香箱と香箱の間に歯車を置くと一箇所あたり約10%のエネルギー・ロスが発生するという。そこでトリプルバレルのキャリバー9R01では、中間の歯車を介さずに香箱の歯車同士を直接連結させ、ロスを極力減らす構造を選択している。この方式は他に類を見ないが、それは限られたスペースの中で最適な部品形状や配置を追求した結果である。

美しく表現された、独創の技術。

グランドセイコーは、このスプリングドライブ8Daysで、独創の技術を静謐な美学で表現するというフロンティアへ歩みだした。その試みは見事に成功したといえるだろう。日本流のものづくりに徹したからこそ、世界に通用する価値をもつグランドセイコーが生まれたのである。

Grand Seiko SBGD201
信州のダイヤモンドダストを思わせる文字板は、複数の層から成っている。型打ち、めっき、塗装などの様々な仕上げのレイヤーが重なることで、これ見よがしではない煌めきが生まれるのである。その純白の世界を流れるように滑空する、グランドセイコーで最も長いテンパーブルーの秒針に見惚れてしまう。手巻スプリングドライブ、プラチナ950ケース、ケース径43.0mm、6,200,000円+税