熊谷登喜夫によるトキオ・クマガイ1985年秋冬~1986年春夏のシューズ。人気スポーツブランドのスニーカーを模倣している。これらのブランドがもし、レザーシューズを出したら……と想像を誘う。
こうして見ていくと、“ファッション”の受容力の高さに気づくだろう。軍服や労働着からもさまざまなディテールを取り込み、デザイナーがモードとして打ち出す。新たな美を生み出すブランドの価値は高まり、ブランド名は増強される。結果、人々はそのブランドを着ていることを主張したくなるのか、ロゴに群がっていくのだ。その時ファッションは富と見栄の象徴となる。「見極める眼を持たねばならない?」では、このロゴについて考察する。ブランドの原義は「焼印」である。他社と区別するという意味合いなのだ。その印がロゴとなり、たびたび流行となって街を席巻している。
2017年秋冬のルイ・ヴィトンとシュプリームがコラボレーションしたボストンバッグ。シュプリームを象徴するロゴとレッドを纏った、ルイ・ヴィトンの人気ライン「エピ」の同アイテムを求めて争奪戦が繰り広げられた。
ロゴは一目でそのブランドと判別できるデザインだ。故に模倣されることも多い。80年代にパリで活躍したファッションデザイナー、故・熊谷登喜夫が手がけたシューズは一目見て某スポーツブランドのパロディということがわかるものだ。現在だったら訴訟ものだろうが、当時はまだ緩い時代だったのかもしれない。3本ラインの間隔がやや太いなど、それぞれのシューズデザインが微妙にオリジナルと異なり微笑ましい。
一方、ルイ・ヴィトンとシュプリームがオフィシャルにコラボレーションしたボストンバッグも並んでいる。2017年に発売された際、ショップには長蛇の列ができ争奪戦となり、いまでも2次流通市場で高騰している。ロゴは人々の欲望を喚起するのだ。
シャネルはツイードなどスポーツ素材を用いたシンプルなフォルムのスーツを手がけ、女性たちに自由をもたらした。こちらの黒2体はクレープを使った1920年代のスーツ(左)とリトル・ブラック・ドレス(右)。軽快な表情が当時としては新鮮なエレガンスだった。
アイテム自体がブランドを象徴しているのがシャネルである。シャネル・スーツと聞いて、なにを思い浮かべるだろう? 富裕な名家のマダムが着ている姿を想起するかもしれない。そういった女性がバリバリと働いているイメージはない。ツイードで仕立てられた、服飾史に名を刻むこのノーカラーのジャケットと膝丈のタイトスカートは、女性の永遠の憧れであると同時に富とステータスの象徴となっている。
ところが、そもそもガブリエル・シャネルがこのスーツをつくったのは女性の社会進出のためだ。コルセットでウエストを極端に細く絞ったスタイルが、20世紀初頭当の西洋の女性たちのスタイルだった。彼女はそのコルセットから女性たちを解放し、自立した女性像をつくり出した。しかしブランド価値が上がるにつれ、シャネルは富の象徴となり、ツイードスーツは憧れの定番となってしまった。
ヨウジヤマモトの1997年春夏コレクションに発表されたスーツ。カジュアルな帽子、裁ち切りの仕様、デフォルメされた襟やカフスなど、シャネル・スーツの伝統をアレンジした。
「服は意志をもって選ばなければならない?」ではシャネルを考察している。この完成されたスーツに多くのデザイナーが挑戦してきた。ヨウジヤマモトは当初モードへの反逆を標榜してアヴァンギャルドを突き進んでいたが、しだいに過去のクチュリエたちへオマージュを捧げるようになる。西洋の仕立てを壊し、自己流に再構築する。ディオールやシャネルのアイコンスタイルをヨウジ流に解釈したのだ。ここで展示されるスーツには、マキシ丈のスカート、ロングポイントのシャツ襟、ボクシーなジャケットフォルムなどヨウジらしいエッセンスが盛り込まれている。デザイナー山本耀司が「俺だったらこうするね」とシャネルという伝説的デザイナーとブランドに挑戦した気概を感じる。
カール・ラガーフェルドのシャネル・スーツに挟まれたヴェトモン2017年秋冬のスーツ。はみ出したシャツはジャケットと一体化している。スカート裾には、膝丈という意味のフランス語と切り取り線が刺繍されユーモアあふれる。エレガンスの象徴であるこのスーツも着用する人により見え方が変わることを暗示しているかのようでもある。
現代においてもシャネルという存在に真っ向から挑んだブランドがある。デムナ・ヴァザリアが中心となり立ち上げたヴェトモンだ。ヴェトモンは、ミンクコートにサングラスという出で立ちのルックに「ミラノのマダム」と名づけるなど、属性により強調したステレオタイプを、モードという舞台に立たせたブランドである。
ここで紹介されているのは、だらしなく仕立てられたフォルムや裁ち切りの裾といった、シャネル・スーツのカリカチュアだ。富裕マダムが着るスーツをパロディ化しているのだが、それすらも時が経ち、人々が着用していくにつれて別のスタイルとして定着するだろう。ヴァザリアがアーティスティック・ディレクターを務めるバレンシアガも同様のアプローチだが、人気ブランドであるが故、結局はこちらも新たな典型的スタイルとなってしまう。現に“バレンシアガっぽいスタイル”というものが存在しているのだから。
アレッサンドロ・ミケーレによるグッチは究極だろう。漫画でも歴史でもストリートでも、好きなものを着れば人は美しいと訴えてくれているようだ。多様性が叫ばれる現代を牽引し、ミレニアム世代からの支持を集める理由がわかる。
ファッションとはすべてをのみ込む巨大なシステムなのだ。誰かが抗おうとも、新しいものをつくろうとも、すべてがファッションとなり、ステレオタイプが新たに生まれる。人間は生まれた瞬間から、そんなゲームに強制的に参加することになるのだ。
いまはカリスマもフォロワーも、ハイファッションもサブカルチャーも、すべてが等価な時代。だからなにも考えず、好きなものを着る。これがゲームの勝者なのではないだろうか。「誰もがファッショナブルである?」では、さまざまな意匠をミックスしたブランドが佇む。アレッサンドロ・ミケーレのグッチは花のプリントや刺繍というエレガンスにポップな漫画やメジャーリーグ・チームのロゴを取り入れ、過剰な装飾スタイルを見せる。ニコラ・ジェスキエールのルイ・ヴィトンは18世紀の男性宮廷衣装アビ・ア・ラ・フランセーズにランショーツとスニーカーをミックスと、時代を交錯させる。コードはあれど、自分で規定するのがファッション・ゲームの醍醐味ではないだろうか。
2階で展示されるマームとジプシーによる展示作品『ひびの、A to Z』。寝間着に身を包んだ人々はどんな人で、どんな日常を過ごすのか? これまで見てきた展示内容が日常に落とし込まれているかのようだ。
作品のディスプレイにはオフィスの床上げに用いられるOAフロアを使用。普段隠される建築資材をあえて表に出すことで、本来の用途からおしゃれ着に進化してきたファッション史を象徴している。
2階のフロアではこれまでの展示を日常に落とし込むかのように、服と人のイメージをつなげるストーリーが紡がれている。対応するアルファベットの写真とセリフをたどると、日々の設定の中で“どう着るか“、“どう見られるか”を選ぶ人々の様子が見える。たとえば、「夜は、結婚式の二次会へ行こうとおもっている」とヒールを履く女性。「みどりのある場所へ足を運ぶ予定でいるから、白にしてみようかな、とおもった」と、幼児を抱きながら白いチュニックを着る女性。ここまで見るとこの展示の本質が伝わってくる。服が人物像を規定し、変化させるのではないだろうか。
日が落ちると人は眠りにつく。明日はなにを着ようか、天気や予定を思い浮かべながら考えるだろう。ファッション・ゲームへの参戦の時だ。コロナ禍において外出する機会が制限され、服への物欲が下がった人が多いだろう。1年前の京都国立近代美術館での開催から巡回している今展だが、コロナ禍のいま見ると、改めて衣服を着ることの豊かさを感じさせる。この展覧会を訪れると、着ることの楽しみ、買い物の楽しみを思い起こさせてくれるのではないだろうか。さあ、今日はなにを着てみようか?