謎めいたケルト模様が渦巻く、アニメーション映画『ブレンダンとケルズの秘密』の世界へ。

  • 写真:渡邊美佐(トリニティ・カレッジ 図書館、ケルズ修道院、聖コルンバの家、ニューグレンジ)
  • 文:青野尚子

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7月29日から全国で公開されるアニメーション映画『ブレンダンとケルズの秘密』。この物語の鍵となった、ケルト美術の最高峰といわれる「ケルズの書」に出合うため、アイルランド・ダブリンへと足を運びました。

The Board of Trinity College Dublin
「ケルズの書」の1ページ。細かい組み紐模様で飾られた枠の中に聖ヨハネが描 かれる。光輪(光背)の模様も面白い。

アイルランドのダブリンにあるトリニティ・カレッジ図書館に約350年にわたって保管され、“世界一美しい書”と称される「ケルズの書」をご存じでしょうか?  ケルト美術の最高峰とされるこの書物ですが、いつ、誰が書いたのか、正確なことはわかっていません。

今夏、この「ケルズの書」をモチーフにしたアニメーション映画『ブレンダンとケルズの秘密』が公開されます。監督を務めたトム・ムーアとアートディレクターのロス・スチュアートへのインタビューの機会を得て、ダブリンへと向かいました。

鮮やかに彩られた、かつての装飾写本。

映画『ブレンダンとケルズの秘密』より。©Les Amateurs, Vivi Film, Cartoon Saloon

今夏公開の映画『ブレンダンとケルズの秘密』を製作したのは、アイルランドの「カートゥーン・サルーン」というアニメーション・スタジオです。アイルランドにはおよそ20のアニメーション・スタジオがありますが、カートゥーン・サルーンはその中でも注目を集めるスタジオのひとつ。アイルランド南部の町、キルケニーで1999年に設立されました。

トム・ムーア監督は、その創立メンバーのひとりです。『ブレンダンとケルズの秘密』は彼にとって初となる長編監督作品でした。日本では2作目の『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』が先行公開されているので、すでにご覧になった人がいるかもしれません。

「ケルズの書」が展示されているトリニティ・カレッジ図書館。
「ケルズの書」の「キー・ロー」と呼ばれるページ。キリストの略字「XPI(キー・ロー、イオタ)」がラテン文字の飾り文字で表現されている。「P」の先には人の頭が、左下には聖なるパンをかじるネズミを猫が見ているところが描かれる。

映画『ブレンダンとケルズの秘密』は、ダブリンのトリニティ・カレッジ図書館に展示されている「ケルズの書」をめぐる物語です。「ケルズの書」は教会でクリスマスなど特別な日の礼拝に使われたと思われる装飾写本で、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四大福音書が収められています。大半のページに彩色が施されたこの本は、「ダロウの書」「リンディスファーンの福音書」とともに三大ケルト装飾写本のひとつに数えられます。

トリニティ・カレッジ図書館2F。20万冊の蔵書はいまも学生が閲覧できる。「ケルズの書」は階下に展示されている。

この「ケルズの書」は、8世紀にスコットランドのアイオナ島でコルンバという聖人を讃えるためにつくられ始めたと考えられています。アイオナ島に侵攻したバイキングから逃れるためにアイルランドに持ち込まれ、ケルズの修道院で完成したので「ケルズの書」と呼ばれるようになりました。イエスや天使、さまざまな動植物、そして文字も赤やエメラルドグリーン、黄色や紫といった鮮やかな色で飾られています。これらは仔牛の革に描かれており、適度な湿気のおかげで現在まで鮮やかな色を保つことができました。作者は不明ですが、おそらく1〜2名の修道士の指導のもと、数名の若い修道士が制作したと考えられています。

映画『ブレンダンとケルズの秘密』より。©Les Amateurs, Vivi Film, Cartoon Saloon

映画のストーリーは、史実とされるものに民話や神話などからヒントを得たエピソードを付け加えたもの。舞台は9世紀のアイルランドです。バイキングの襲来に備えて高い塀を築いていたケルズ修道院にエイダンという修道士がやってきます。彼はバイキングに襲われたアイオナ島から「聖なる書」を持ち出してきていました。知恵と力を秘めたその書を完成させるため、主人公のブレンダンはインクの原料となるある植物の実を探しに森へ出かけます。妖精の助けを借りてブレンダンは実を持ち帰ることに成功しますが、バイキングの脅威が迫ります。

『ブレンダンとケルズの秘密』トム・ムーア監督。ブレンダンに似ている、との噂も。
『ブレンダンとケルズの秘密』アート・ディレクターのロス・スチュアート。

映画は大半が伝統的な手描きによるアニメーションでつくられています。ケルトの遺跡を思わせる装飾的なパターンが渦を巻くようにうごめく中、魅力的な主人公たちが歩き、走り、飛び回ります。トム・ムーアは「自分たちの独自の文化をアニメーションで表現したかった」と言います。

「僕たちは小さな頃からいわゆるケルト的な文様に囲まれて育っている。コイン、Tシャツ、アクセサリー、いろんなところにケルティックなパターンがあふれているからね。『ケルズの書』はケルトの芸術を代表するシンボル的存在だし、そういったアイルランド独自の文化をアニメーションで表現したいと思ったんだ」

『ブレンダンとケルズの秘密』の背景に使われた水彩画。

最近ではコンピュータ・グラフィックスによるアニメーション映画が多数、製作されています。けれども彼らは今回、あえて伝統的な手描きによるアニメーションに取り組みました。
「コンピュータではできない、僕たちが大学で学んだようなやり方でつくりたいと思ったんだ」とトム・ムーア。

『ブレンダンとケルズの秘密』では独特の空間が広がります。特に奥行きの表現はユニークです。現実の空間ならこのぐらいの奥行きだろう、と思われる距離が場面によって伸び縮みするのです。
「この映画ではあえて近代的な遠近法や流行りの3Dコンピュータ・グラフィックスを使わず、中世美術を思わせる空間表現に挑戦したんだ」とトムは言います。確かに、ときに平面的に表現される空間は彼が言及する中世美術の中でもプロト・ルネサンスや北方ルネサンスの空間表現を彷彿とさせます。一点透視法といった幾何学的な手法ではなく、ものの大小や重なりによって遠近を表すやり方です。ケルト遺跡の表面を覆う石彫の画面構成にも似ています。

カートゥーン・サルーン、スタッフのデスク。スタジオ・ジブリのグッズは日本でワークショップをした時に手に入れたそう。

彼らがこの仕事に就くようになったきっかけは、10代の頃に夢中になって読んだコミックでした。
「ちょうどその頃、キルケニーに小さなマンガ・ショップができたんだ。フランスのアーティスティックなマンガも英訳されて並んでいたから、むさぼり読んだね」とトム。
「マンガなら何でも、って感じだった。憧れの漫画家はロックスターみたいに輝いて見えた」とロス。日本のアニメーションではやはり宮崎駿、高畑勲に影響を受けたといいます。
「手塚治虫のアニメーションもすごいと思った。現代的なものよりもおとぎ話のような雰囲気のものが好きだったね」

映画『ブレンダンとケルズの秘密』原画。1枚でも生命感にあふれている。

アニメーション以外で影響を受けたものは? と聞くと、真っ先にクリムトの名前があがりました。
「特に『ブレンダンとケルズの秘密』ではエゴン・シーレ、モネやピサロなど印象派の画家、オーブリー・ビアズリー、だまし絵で有名なエッシャーなどからインスピレーションを受けている」とトム。

「CGによるリアルな表現とは違う、どちらかというと抽象的な表現をめざした。その時にクリムトの、三次元のランドスケープを二次元的に表現して空間感覚を変える方法がぴったりだったんだ」とロス。
クリムトは琳派など日本美術の影響を受けたとも言われています。奥行きのないフラットな画面に一定のパターンを繰り返すといった装飾的な画面は、ケルトの美意識に通じるものもあるのかもしれません。

映画の舞台となった、ケルトの遺跡を訪ねて。

ケルズ修道院の塔。戦争が起きるとここに隠れたという。
交差した部分が円で囲まれたハイ・クロス。

映画に登場する建物や森は実在するケルトの遺跡からインスピレーションを得たものです。ひとつは「ケルズの書」が保存されていたケルズの修道院。この修道院は聖コルンバが西暦554年頃に建て、ここで9世紀に「ケルズの書」が完成されたと言われています。現在の教会は18世紀に建てられたもの。5つの窓がある丸い塔は10世紀に展望塔として建てられ、市民が戦災を避けて隠れる場所にもなりました。十字の交差部分を円で囲んだ特徴的な「ハイ・クロス」は3つあります。それぞれイエスの洗礼など、聖書のシーンが描かれていますが、摩耗してしまってどの場面なのかわからないものもあります。

上が欠けてしまったハイ・クロス。一番下が「イエスの洗礼」の場面。
「聖コルンバの家」。聖人、コルンバの遺品がしまわれていたとする説も。

教会や塔から歩いて数分のところにある「聖コルンバの家」は厚い石の壁でできています。ここには宝物が収められていたとされますが、実際に何があったのかはわからないとのこと。地下には修道院まで通じる通路がつくられていました。

「ニューグレンジ」外観。日本の古墳にも似ている。
特徴的な渦巻き模様が描かれた「ニューグレンジ」の石とトム・ムーア監督(左)、ロス・スチュアート(中)。

「ニューグレンジ」はいまから約5000年前に建てられたと言われています。かつては墳墓としてつくられたともいわれていましたが、現在ではそうではないというのが有力な説となっています。中には中心まで続く通路があり、内外に置かれた大きな石や石の壁にはトム監督がお気に入りの古いケルト模様が彫られています。絡み合う渦巻きや同心円状の模様、三角形を組み合わせたパターンなど、幾何学模様がほとんどです。これらのパターンが何を表しているのか、正確なところはわかっていません。

「ニューグレンジ」、渦巻きや格子模様、穴などで装飾された石。渦巻きは太陽を表しているのだという説もあります。

「ニューグレンジ」の入り口からは一年に一度、冬至の日だけ太陽の光が奥まで差し込むようになっています。季節の移り変わりや気候の変動は農作物の出来不出来に直結する、つまりは生死を決する重要な事柄でした。ニューグレンジは神に豊作を祈願する、重要な祈りの場でもあったことでしょう。映画では「クロム・クルアハ」という古代アイルランドで生贄を捧げられて信仰された恐ろしい神のいる場所のモデルとして登場します。

「グレンダロッホ」の塔。内部には5〜6階分(塔の高さによって異なる)木の床があったが、いまでは失われています。

アイルランドの言葉で“2つの湖がある谷”という意味の「グレンダロッホ」は、美しい湖や山に囲まれた聖地です。6世紀に聖ケヴィンによってひらかれ、12世紀まで巡礼の中心地となりました。ここにもアイルランドに特徴的な塔がいくつかあります。これらの塔は鐘楼として、また巡礼の際の目印として建てられたようです。映画の中では、ケルズ修道院の塔のモデルとして登場します。

聖地グレンダロッホの「聖ケヴィンの礼拝堂」。聖ケヴィンは神の命でここに修道院をつくったとされる。

石造りの小さな教会は「聖ケヴィンの礼拝堂」として知られていますが、屋根から突き出した鐘楼が煙突のように見えるため、「聖ケヴィンのキッチン」とも呼ばれています。この他にもいくつか石造りの小さな礼拝堂が残っています。近くにあるカテドラルはアイルランドで現存するロマネスク以前の教会建築としては最大級のものです。

『ブレンダンとケルズの秘密』より。©Les Amateurs, Vivi Film, Cartoon Saloon

映画『ブレンダンとケルズの秘密』には、これら古代から現代までのさまざまなアートが絡み合っています。もちろん「聖なる書」(ケルズの書)をめぐる少年僧ブレンダンの活躍と成長も見逃せません。ケルトの歴史と美術をチャーミングにミックスした映画の世界を、ぜひ楽しんでください。

『ブレンダンとケルズの秘密』
原題/The Secret of Kells
原案・監督/トム・ムーア
共同監督/ノラ・トゥーミー
脚本/ファブリス・ジョルコウスキー
アートディレクター/ロス・スチュアート
音楽/ブリュノ・クレ、KiLA
2009年 フランス・ベルギー・アイルランド合作 78分
配給/チャイルド・フィルム、ミラクルヴォイス
7月29日(土)YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次ロードショー