アカデミー賞受賞・辻一弘さんが語る、名優をチャーチルへ変身させたメイクアップ

  • 写真:江森康之(ポートレート)
  • 文:細谷美香

Share:

『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』でアカデミー賞メイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞したアーティスト、辻一弘さん。オスカー像とともに来日した辻さんに、映画をはじめとしたクリエイションについて語っていただきました。

オスカー像を手に現れた辻一弘さん。

辻さんが特殊メイクアップを手がけた映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』は、第2次世界大戦初期のイギリスで首相に就任直後のチャーチルが、ヒトラーに屈するか否かの決断を迫られた、知られざる27日間に光を当てた作品です。辻さんはチャーチルを演じるゲイリー・オールドマンを見事に変身させ、実話をもとにした物語に説得力と奥行きをもたらしました。Penは一時帰国中の辻さんにインタビュー。今回の仕事について、そしてこれからの活動について語る言葉からは、顔を表現すること、すなわち人間の内面への尽きせぬ好奇心と探究心が伝わってきました。

アカデミー賞ノミネートの発表後、スタジオでコメントを述べる辻一弘さん。

オールドマンからのオファーで始まった、映画『ウィンストン・チャーチル』の仕事。

ゲイリー・オールドマンは『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』でアカデミー賞主演男優賞を受賞。©2017 Focus Features LLC. All Rights Reserved.

高校時代に特殊メイクの世界に進む夢を抱き、ハリウッドに渡って2度アカデミー賞にノミネートされるなど、輝かしいキャリアを築いていた辻さんですが、実はオファーを受けた頃はアートに活躍の場を移していました。指名したのは主演のゲイリー・オールドマン。直接辻さんに依頼が来ました。
「あなたが引き受けてくれたら、私はこの映画に出ます」
しかし、一度、映画の仕事から身を引いていた以上、復帰は「自分を欺くような気がする」という思いもあり、1週間以上悩んでから返事をしたそうです。
「とても難しい挑戦が必要な映画ですから、他のメイクさんでもこれをやるには大変な決心がいると思います。やっぱり僕にとって、以前ご一緒したことのあるゲイリーさんが声をかけてくれたことが大きかった。彼はメイクの重要性がわかっているし、メイクアップ・アーティストに対する尊敬の念があるんです。そうではない役者も多い中、ゲイリーさんはメイクのスタッフが俳優のために精いっぱい仕事をしてくれていると、心からわかっている人なんですよね。スタッフに接する態度が素晴らしいだけではなく、彼は役者としても特別です。どうしても自分を消せなくて、どの作品でも同じようになってしまう人もいますが、彼はいつもその役になりきってしまいますから」

オールドマンのチャーチル役へのヘアメイクは毎回3時間を要しました。©2017 Focus Features LLC. All Rights Reserved.

オールドマンとチャーチルは似ていないどころか、頭の形、目と目の間の距離など、決定的に容貌が違うため、とても難しい作業だったと辻さんは語ります。何度も試作を重ね、結果的に究極のハイブリッドが誕生しました。
「最初にジョー・ライト監督からは、強・中・弱の3種類を見たいと言われました。要するに、どれくらいチャーチルに近づけるのか、その度合いを3段階で見たいということです。テストを繰り返して話し合い、改良しながら、イギリス人の目にもチャーチルに見えるものを目指そうと決めました。そこに向けてベストを尽くしつつも、同時にメイクが役者の足かせにならないよう注意を払っています。メイクはあくまでも役者さんをサポートするものですから。演技をする時にメイクが気にならないようにデザインしています」

役者によって違う肌質や筋肉の動きをすべて考慮してデザインするために、とりわけ役者本人の表情を活かすメイクを追求し、辻さんは過去に解剖学の知識も学びました。
「人の顔を触る職業なので繊細さは必要ですし、もちろん顔の構造を理解することも大事です。それぞれ興味のもち方や勉強の仕方は違いますが、メイクを掘り下げている人は解剖学の知識がありますね。メイクのプロとなるからには、本来みんなが勉強するべきことだと思います。たとえば年齢を重ねると筋肉と皮膚のずれが生じるので、顔になにかを付けるとどんどん動かしづらくなります。今回、テストの段階でまぶたの形を変えたいという意見も出ましたが、動かしづらくなるということで付けるものを排除していきました。メイクは、表面の見た目だけではなく、『なぜこう見えるのか』を理解していなければできない仕事だと思っています。この世界を目指す若い人たちに伝えたいことのひとつですね」

チャーチルが歴史的なスピーチをする名場面は辻さんが最も心動かされたシーン。©2017 Focus Features LLC. All Rights Reserved.

赤ちゃんの毛とアンゴラの毛を混ぜてつくったウィッグ、体型を自然に表現するボディスーツなども含め、チャーチル役の顔と身体のすべてを監修・デザインした辻さん。試写を初めて観た時は「ものすごい映画に関われた」と感じたそうです。
「アカデミー賞のステージには僕を含めて3人が上がりましたが、特殊メイクのチームだけでもたくさんの人々が関わっています。僕が一緒に仕事をしたいと思える、優秀なスタッフを集められたのも幸せなことでした。映画を観て嬉しかったことは、ゲイリーさんがメイクしているように見えないし、ゲイリーさん本人にも見えないこと。なかでもチャーチルの最後のスピーチの場面はとてもよかったですね。タイミングよくきれいに終わるラストも好きでした」

辻さんが声をかけて集めた信頼できるスタッフとともにアカデミー賞のステージに。photo: Shutterstock / AFLO

内面を映し出すから、「顔」は面白いのです。

辻さんは、アメリカのメイクアップ界の巨匠、ディック・スミスが、ハル・ホルブックに施したリンカーンの特殊メイクを見てこの世界に入りました。CGに頼らずに歴史的な政治家の物語を描く今回の作品は、原点回帰と言えるものだったかもしれません。特殊メイクアップ・アーティストへのリスペクトがない俳優との仕事や人間関係に疲弊してハリウッドを去ることを考え始めた頃、転身へのきっかけを与えてくれたのもディック・スミスでした。
「師匠のディックさんに彼の肖像をつくったら、とても喜んでくれて。その時に、こういう仕事の道もあるんじゃないかと思いました。映画の仕事はあくまでも注文に応えて、待ち続ける仕事。でもアートは自分で動いて結果を出していかないと、なにも起こらない。そこが大きな違いであり、楽しさでもありますね。今回久しぶりに映画の仕事をして、情熱をもつ一流の人たちからいいインスピレーションを受けたので、これからの作品づくりと生き方に反映されていくと思います」

ハリウッドで25年以上のキャリアを積んだ辻さん。メイクアップの師匠ディック・スミスの肖像制作を機に2012年からアートの世界へ。
現在はアーティストとして、数々の著名人を中心にリアルなポートレートを制作。

アカデミー賞受賞をきっかけに、辻さんには新たな作品へのオファーも届いています。が、「自分が興味をもてる作品、そしてやる意味を見出せる作品でなければ断ります。ゾンビ映画の仕事が来ても、興味がないので絶対にやらないですね。人が傷つけられるのを見るのが楽しいなんて、理解できませんから」ときっぱり。アカデミー賞作品賞に輝いた『シェイプ・オブ・ウォーター』ではヒロインが恋する半魚人の目をデザインしていますが、このプロジェクトに参加した理由は?
「ギレルモ・デル・トロ監督のことが好きだから。ギレルモはディック・スミスのポートレートを買ってくれてもいます。いつも僕によくしてくれる彼に協力したかった。そしてなによりどんな作品でも、いちばん大事なものは『目』ですよね。全体がどんなによくても最終的に目が死んでいたらいい結果にはなりませんから、そこを任せてくれたことも嬉しく思いました。ジャンルとしてはファンタジーよりもリアルなものが好きなのですが(笑)」

エイブラハム・リンカーンのポートレートも辻さんの代表作のひとつ。

現在は、2020年に予定している日本での個展に向けて、拠点であるロサンゼルスで作品づくりにいそしむ日々。代表作であるポートレートの展示が中心になる予定です。
「顔への興味は、人間不信が出発点かもしれません。人の表と裏を見ているうちに、内面を映し出すものとしての顔に興味をもったのだと思います。内面が表れるから、顔はつくっていて面白い。(Pen「奇跡の建築」特集 2018年4月1日号のページをめくりながら)小学生の頃は建築家になりたくて、いまでも興味があるんですよ。振り返ってみると、子どもの時からなにかをつくることへの興味はずっと変わりません。この先のことはわかりませんが、なにかをつくり続けていくことができれば、こんな最高なことはないと思っています」

『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』

監督:ジョー・ライト 
出演:ゲイリー・オールドマン、クリスティン・スコット・トーマス、リリー・ジェームズほか
2017年 イギリス映画 2時間5分
3月30日よりTOHOシネマズ シャンテほかにて公開。
www.churchill-movie.jp