山下達郎「ドーナツソング」でも歌われた、若者たちの公園通り。【速水健朗の文化的東京案内。渋谷篇③】

  • 文:速水健朗
  • 写真:安川結子

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スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す東京を、ライターの速水健朗さんが案内。過去のドラマや映画、小説などを通して、埋もれた歴史を掘り起こします。第2回は渋谷エリア。駅周辺の大規模開発が進む渋谷は、これまでも時代によって印象を大きく変えてきました。今回は「渋谷は子どもの街か、大人の街か」という切り口でひも解きます。

速水健朗(はやみず・けんろう)●1973年、石川県生まれ。ライター、編集者。文学から映画、都市論、メディア論、ショッピングモール研究など幅広く論じる。著書に『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』などがある。

80年代の西武・セゾン文化からは、大人の街としての渋谷が見えてきました。では、いつから渋谷は若者の街になったのでしょうか? そのきっかけとして速水さんが挙げたのは、渋谷駅からNHKホールへと向かう「公園通り」。まずは渋谷パルコがオープンする以前の様子から、話を始めてくれました。


前回記事【渋谷篇②西武・セゾン文化と大人の街】はこちら

渋谷パルコ誕生とともに生まれた公園通り。

スクランブル交差点から見える、TSUTAYAやスターバックスコーヒー上の電子看板。公園通りを挟んだ向かいには、歴史を感じる「名物天津甘栗」のリアル看板も並ぶ。

渋谷駅前のスクランブル交差点。おびただしい数の電子看板が目新しいものではなくなって久しい。なかでも、TSUTAYAやスターバックスコーヒーが入るQフロントのビジョンが最大だ。ビルの一面がほぼスクリーンのQフロントは、1999年オープンなので今年で20周年。三千里薬品の文字が定期的に表示されるグリコビジョンの脇には、「名物天津甘栗」のリアル看板もある。常に姿を変えている渋谷には、かつての風景を残せという運動は起こり得ないだろう。だが天津甘栗と三千里薬品の看板は、最古の風景として未だに保全されている。一方はアナログ、もう一方はデジタルとして。

Qフロントがすでに20周年ということに驚くが、SHIBUYA109は40周年である。40年にわたって若者をターゲットにしている老舗のファッションビルは、二律背反を抱えた存在といえる。渋谷はこれからも“若者の街”のイメージを抱え続けるのか。そろそろ限界も来ているのではないだろうか。今回は、渋谷が若者の街になったきっかけである公園通りの歴史を振り返ってみる。

渋谷駅からNHKホールに向かう公園通り。ちなみに、写真に映っている「デニーズ」は村上春樹の2004年の小説『アフターダーク』に登場する。

Qフロントの向かって右隣が西武百貨店A館・B館。その先のY字路を左に折れてNHKのほうに上ると公園通りだ。パルコができる1973年以前の公園通りは「NHKまで綺麗になんにもなかった」というのは、中学時代から渋谷のロック喫茶に出入りしていたミュージシャンのサエキけんぞう(『さよなら!セブンティーズ』サエキけんぞう クリタ舎)。「公園通り」とは、パルコとともに生まれた名称だ。パルコ開業時のコピーは「すれちがう人が美しい 渋谷公園通り」である。

“渋谷=若者の街”というイメージは、渋谷パルコとともに生まれたといえる。東急がSHIBUYA109をつくったのも、当時の西武セゾングループが手がけたパルコの若者路線の成功があったからだ。東京における若者の街の座は、50〜60年代までは銀座が、60〜70年代には新宿が引き受けてきた。以降は、ずっと渋谷(と原宿)がその座を担い続けている。

1973年に渋谷パルコがオープン。センター街にも若者が集まるようになり、渋谷駅ハチ公口前の交差点がスクランブル化された。写真:ACROSS編集室

「区役所通り」と呼ばれていたパルコ以前の公園通りに立ったのが、渋谷公会堂(1964年~)である。歴史を遡ると、公会堂の向かいに「時間割」という名の喫茶店が、パルコ以前からあった。69年に一戸建ての洋館の喫茶店として開業。2008年と最近まであったので覚えている向きも多いかもしれない。80年代にビルに建て替えられ、店舗はビルの地下1階に移っていた。

渋谷公会堂が立っているのは、公園通りの一番上。2006年からの5年間は、当時ネーミングライツをもっていたサントリーが自社商品を冠して「渋谷C.C.Lemonホール」と名付けていた。

山下達郎にも歌われた、幻のミスタードーナツ公園通り店。

パルコオープン以前、公園通りは「区役所通り」と呼ばれていて、「時間割」や「ピザハウスジロー」など人気の飲食店が点在していた。写真:渋谷区役所 広報コミュニケーション課

さらに遡ると、「ピザハウスジロー」という店があった。橋本倫史の著書『ドライブイン探訪』で、作家の亀和田武がかつてこの店を訪ねた時のことを語っている。亀和田が高校3年生だった1966年。アイビーファッションで身を固めたクラスメートのクルマで一緒に来たという。駐車スペースがあったジローは、都会っ子の集まる場所だったのだろう。もともとジローは、神保町の喫茶店からスタートし、ピザの専門チェーンとして拡大。その後、この場所は渋谷東武ホテルとなり、いまに至っている。東武ホテルも、この辺りで最も古い建物のひとつになった。

個人的な公園通りのシンボルは、ずっとミスタードーナツだ。坂の中腹くらい、東武ホテルの向かい側にあった。地元にもミスドはあったが、渋谷の公園通りは特別という印象をもっていた。最初に訪れた時のことを、はっきりと覚えている。初めて友人と東京に遊びにいった高校1年の夏の記憶だ。渋谷に着いてまず公園通りを突き進み、そこで見つけたミスドのエアコンで涼み、その後、渋谷の街を歩き回った末に再びミスドで涼んだ。とても暑かった夏という思い出なのだが、調べてみると86年は記録に残る冷夏だった。

渋谷東武ホテルが立ったのは1976年。トレンディドラマ『君の瞳をタイホする!』に登場したイタリア料理店なども近くにあったが、いまでは周辺もすっかり変わってしまった。

80年代のミスドといえば、オサムグッズ。ポイントを貯めるとイラストレーター原田治が描いたキャラクターのグッズが手に入った。公園通りのミスドの外観は、市松模様の壁に看板のネオンが青や赤でにぎやかな感じだった。この店は、山下達郎の楽曲の題材にもなっている。「ふたりドーナツショップさ 夏の公園通りが揺れる まるでカタパルト 燃える風と 転がる坂道」(作詞:山下達郎)。1996年のミスドのCMソングで、店内のBGMとしても使われていた。この特別だった公園通りのミスドが閉まったのは、2005年のこと。公園通りのプレゼンスが下がるのもこの頃ではないか。ミスドのなくなった公園通りは、未だにしっくりきていない。

公園通りの全盛時代は80年代である。インディーズ盤を中心に扱うダイエー資本のレコードショップの「CSV渋谷」が1985〜88年まで存在した。岡崎京子の漫画にもちらっと登場する(『クイックジャパン』創刊準備号 1993年)。漫画では、テイ・トウワらが出入りしていたことが触れられる。場所は、当時存在した「たばこと塩の博物館」の隣。また、公園通りの80年代を代表する店舗に「セーラーズ」もあった。おニャン子クラブが衣装としても着ていたブランドのショップで、公園通りの脇にある北谷公園の向かいにあったが現在は古着屋になっている。

ミスタードーナツ渋谷公園通り店の店内BGMとして使用されていた、山下達郎の「ドーナツソング」。アルバム『COZY』に収録されている。(山下達郎 1998年 ダブリューイーエー・ジャパン)

90年代の話をすると、渋谷を中心としたカフェブーム(90年代末~2000年前半)があった。ブームのはしりだった「カフェ・アプレミディ」が公園通りに開業したのは1999年のこと。橋本徹は90年創刊の音楽ガイド的なフリーペーパー『サバービアスイート』の編集、さらにコンピレーションCDの「free soul」シリーズを手がけた選曲家である。free soulは、古いブラック、ラテン、ファンクや、ブラジルのポップミュージックなどを現代の視点で再評価するという趣旨のムーブメントだった。従来の音楽マニアは、カタログをコンプリートしていくような存在、または教条主義的な音楽語りに向かう気質が目立った。だがそうではなく、気持ちいいかどうかだけを重視して選曲したのがfree soulだ。さらに橋本徹は、タワーレコードが発行するフリーマガジン『bounce』の編集長を経て、99年にカフェのオーナーとなる。

公園通りの奥に並ぶビル。90年代末~2000年前半に「カフェ・アプレミディ」を中心に、カフェが盛り上がっていた。カフェ・アプレミディは2009年にファイアー通りに移転している。

2000年前後のカフェ・アプレミディのことを、よく覚えている。週末は、店外に列が伸びる。カフェと同名のコンピレーションCDがヒットして、店内でグッズと並んで売っていた。カフェブーム当時の渋谷がいまよりお洒落な街だったのかというと、少し違う。橋本はインタビューで、「大人を渋谷に呼び戻す」ためにこのカフェを始めたという話をしている。
「オープン当初と比べたら、明らかに渋谷に大人が戻ってきているという実感はあります。」とは06年のインタビューでの言葉だ。音楽好きの人々が、落ち着いてお酒を飲むようなクラブやカフェは、青山・表参道や中目黒、代官山に移っていた。一方、90年代半ば以降、つまり渋カジ族(前々回参照)以降の渋谷は、ユースカルチャーの中心地となった。チーマー、コギャル、ヤマンバらがセンター街にたむろする街が、誰もが知る渋谷だった。

飲食業界では、客単価の違いで街を捉える。たとえば、80年代六本木のディスコの客単価は、3,000〜4,000円だったのに対し、渋谷では1000円でないと客が入らなかった(『渋谷不良少年20年史』滝澤勉)という。若者の街とは、裏を返せば単価の低い街のことでもある。商売を営む人々は、必ずしも若者の街であることを喜んではいない。客単価をいかに引き上げるかが生き残るための戦略となる。そう考えると、渋谷が子どもの街と大人の街との間を行き来する理由も見えてくる。

90年代、チーマーがたむろしていたセンター街。チーマー間での抗争や一般人へのカツアゲなど、トラブルが多発していた。

昨今の渋谷の再開発には、渋谷を大人の街として取り戻したいというあからさまな願望がにじみ出ている。建て替え中のパルコは2019年11月に再開するが、新しいパルコがターゲットとして打ち出しているキーワードが「ノンエイジ」「ジェンダーレス」「コスモポリタン」の3つである。世代や性別にこだわらない。若者だけを相手にするのではない。つまり脱若者の街が新しいパルコの方針なのである。

公園通りから話が離れるが、旧東急プラザの跡地に立つ渋谷フクラスが19年12月に開業する。いまの渋谷の再開発で最も大きな影響力をもつ東急グループが手がけるこの商業施設のターゲットは、「都会派の感度が成熟した大人たち」。新しいライフスタイル「MELLOW LIFE」を提案するのだという。コンセプトを真に受けるものでもないが、渋谷の再開発において各社が口を揃えて”大人の街””脱若者”に躍起になる姿が見えてくる。45年近く若者の街が続いているのだから、そろそろ他の街がその役を引き取ってくれてもいいのではないか。