多彩なメッセージを込めたカラフルな彫像が並ぶ、国立新美術館「ニキ・ド・サンファル展」へ。

  • 写真:江森康之
  • 文:青野尚子

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週末の展覧会ノート12:「射撃絵画」やカラフルな女性像「ナナ」シリーズなどで知られ、戦後を代表するアーティストの一人、ニキ・ド・サンファル。国内外の主要作品を集めた大規模個展が開催中です。

いま、国立新美術館で開かれている「ニキ・ド・サンファル展」は、日本で初めて公開される作品も多く、国内では史上最大規模のもの。2014年にパリのグラン・パレで開かれた回顧展の要素を取り入れつつも、作品を新たに選び、章構成も考えられた日本独自の内容の展覧会です。見逃せないアート展をライター青野尚子さんと訪ねるシリーズ「週末の展覧会ノート」。今回は担当研究員の山田由佳子さんに、ニキ・ド・サンファルの魅力と生涯について語ってもらいました。

自由奔放、大胆不敵な作品群。

会場に流されている映像の中で、銃を構えるニキ・ド・サンファル。
小石やコーヒー豆、陶片など様々なオブジェをつかいつくられた『自画像』1958-59年 ニキ芸術財団、サンティー
左:『サソリと牡鹿』1959年、ニース近現代美術館 右:『風景の中のピンクのヌード』1959年 ニキ芸術財団、サンティー 

ニキ・ド・サンファルは1930年、フランス生まれ。幼い頃アメリカに渡り、18歳のときに最初の結婚をします。パリに戻ったニキはモデルとして働きながら演劇の学校に通っていました。が、1953年にニキは精神的に不安定な状態となり、そのときに治療の一環として絵やコラージュを手がけたことがきっかけになって芸術家への道をめざします。さらに1956年には彫刻家のジャン・ティンゲリーと出会い、制作に協力してもらうようになります。友情は恋愛へと発展し、1960年末にはともに暮らし始めました。

ティンゲリーと暮らす少し前に制作したのが「自画像」などの絵です。正規の美術教育を受けていない彼女の作品は自由奔放、大胆不敵です。小石やコーヒー豆、陶片などが貼り付けられていて、ジャクソン・ポロックのドリッピングの手法を採り入れた絵の具が自在に散らばっています。

左:ジャスパー・ジョーンズの作品からインスピレーションを得た『必要とされた殉教者/聖世バスティアヌス/私の恋人の肖像/私の肖像』1961年 個人像(協力:ジョルジュ=フィリップ&ナタリー・ヴァロワ・ギャラリー、パリ) 右:射撃絵画の制作風景の記録フィルム。
左右とも、大聖堂をモチーフにした射撃絵画。宗教の名のもとに起きる戦争への抗議の意志が込められている。右:『大聖堂』1962年 ニキ芸術財団、サンティー(協力:ジョルジュ=フィリップ&ナタリー・ヴァロワ・ギャラリー、パリ) 左:『大聖堂』1962年 Yoko増田静江コレクション
ドラゴンをモチーフにした2枚組の作品『ポジティヴ・ネガティヴ・ドラゴン』 1988年 ニース近現代美術館 

ニキの絵に貼り付けられるオブジェの中にはアクセサリーや子供の靴などに混ざって、おもちゃの銃なども混ざるようになります。またジャスパー・ジョーンズの作品にインスパイアされた、標的を組み込んだ作品もつくられました。そして生まれたのが1961年から63年にかけて活発に制作された「射撃絵画」です。

「射撃絵画」とは板にさまざまな色の絵の具を詰めた袋や缶をとりつけ、それをめがけて銃を撃つというもの。ニキは「射撃絵画」について、「絵が泣いている。絵が血を流す。私が絵を殺した」と言っています。

「水鉄砲で絵の具を飛ばすのではなく、絵からいろいろな色の絵の具が吹き出してくるところが重要です。つまり、絵画が身体の比喩になっているのです」と山田さん。ニキは絵画をめがけて銃を撃つところを観客に見せたり、テレビ番組で公開しています。「見る人の前で“銃を撃つ”という行為を行うという意味で、パフォーマンス的な要素も生まれます。またアルジェリア戦争など、世界各地で勃発していた暴力行為をも連想させます」

ニキはドラゴンなど、モンスターをモチーフにした作品もつくっています。ドラゴンはこの頃アメリカでも公開された日本映画「ゴジラ」などの怪獣映画がもとになっています。放射能で突然変異を起こした怪獣を描くことは、冷戦下の核の問題に対するニキの態度の表れでした。彼女はアートを通じて、社会問題にアクチュアルにかかわってきたのです。

様々に表現された、矛盾をはらんだ女性像。

右:『花嫁』1964年 個人像、パリ 左:『ルクレツィア(白い女神)』1964年 個人像
複数の女性のイメージからなる赤く染まった魔女。『赤い魔女』1963年 Yoko増田静江コレクション

「射撃絵画」の次にニキが取り組んだのは、「女性」というモチーフでした。女としてどう生きるか、というのはニキに限らず世の女性たちにとってある意味で永遠のテーマですが、ニキが生きたのは今よりももっと制約が多かった時代です。しかもニキの両親は不仲で、彼女と父母との関係は複雑なものでした。結婚したニキは1952年にパリに移住、そこでシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』を読んで感銘を受けます。ニキが女性をモチーフに制作した作品にはそういった事柄が背景にあります。

「たとえば花嫁を表現した作品がありますが、決していいイメージではありません。女性は若くして結婚し、子供を産んでよき妻、よき母になれ、という当時の風潮への反発が込められているのです。実際に、ニキがつくった花嫁は決して幸せそうな表情ではありません」

ニキが作った最後の射撃絵画「赤い魔女」は、女性に聖母マリア像や赤ん坊のオブジェが取り付けられていますが、同時に男を誘うようなポーズをとっています。男性から母性と娼婦のような妖しさの両方を求められる女性の矛盾を表現しているのです。

はちきれんばかりの身体で誇らしげにポーズをとる「ナナ」たち。
左奥に見えるのが『ブラック・ロージー、あるいは私の心はロージーのもの』1965年 ニキ芸術財団、サンティー
『身繕い』1978年 ニース近現代美術館

1960年代半ばに登場したのが、「ナナ」という女性像でした。「ナナ」誕生のきっかけとなったのは知人の妻が妊娠した姿を見たこと。フランス語の俗語で「娘」という意味です。
「ダンスをしていたり飛んだり跳ねたりしているダイナミックなポーズが印象的です。宙に浮いているものまであります。静かに立っている、あるいは座ったり横になったりしていることが多い伝統的な女性像とは対極にあるものでしょう。誰かに付き従うことを拒否するような新しい女性のイメージは人気を博す一方、バッシングも受けました。たとえばハノーバーに『ナナ』を設置する計画があったのですが、『公共の場にふさわしくない』として反対されたこともあります」

数多くの「ナナ」の中には肌を黒く表現したものもあります。この「ブラック・ロージー、あるいは私の心はロージーのもの」という作品はアメリカで公民権運動が盛んだった頃に作られました。これは人種分離法に異議を唱えた公民権活動家、ローザ・パークスへのリスペクトを込めたもの。女性への抑圧から逃れたいと願って制作した「ナナ」に、白人と同等の権利を求める黒人の姿が投影されています。

ニキを苦しめた両親のうち1967年に父が、1978年に母が亡くなります。父の死後ニキが作った映画「ダディ」は、父から受けた性的虐待を告発するものでした。上の写真の「身繕い」は母の死をきっかけに作られた作品。化粧台には化粧道具のほかに花やドクロが置かれています。

「鏡やドクロ、花は17世紀絵画の『ヴァニタス』の伝統を汲んだもの。形あるもの、美しいものもいつかは衰え、死に至るという教訓です。母親に対してとても批判的な、『お母さんのようにはなりたくない』という思いが見てとれます」
うつろな目をした母の像は、ニキが造り出したもう一つのモンスターなのです。

パートナーとの関係から生まれた作品。

『頭にテレビをのせたカップル』1978年 Yoko増田静江コレクション
同じく『頭にテレビをのせたカップル』1978年 Yoko増田静江コレクション

展示作品の中でももっとも大きなものの一つ、「頭にテレビをのせたカップル」は360度ぐるっと回って見たほうが面白い彫刻です。テレビは平面ですが、その下の人体は立体です。その対比も面白い作品です。
「テレビは相手の一面しか現さない、そんな社会批判を読み取ることもできます。テレビの上にのっているどくろは虚栄の象徴でしょう。どうにもすれ違っているカップルを表現しているのですが、核や戦争を愛らしくも見えるモンスターで表現するように、辛辣な状況でもユーモアを忘れないのがニキの持ち味です」

この彫刻がある展示室の壁には1968年、恋人だったジャン・ティンゲリーとの破局を迎えていたころのシルクスクリーンが展示されています。ティンゲリーは故郷のスイスで恋人と暮らし始め、ニキにも複数の恋人ができました。でもこのシルクスクリーン作品には「どうしてあなたは私を愛してくれないの?」など、切ない恋心が謳われています。1971年に二人は正式に結婚しますが、別居したまま別々の恋人と暮らしていました。一般の人から見ると奇妙に思えるそんな関係もアーティストらしくて面白いものです。

『ニキとヨーコ、タロットガーデンにて』撮影:黒岩雅志 1983年 Yoko増田静江コレクション 
ヨーコへと贈られた、カラフルな手紙の数々。
『ニキ美術館のための模型』1989年 Yoko増田静江コレクション

日本でニキの紹介に尽力した女性がいます。Yoko増田静江は実業家の妻であり、自身も自分で興した事業を成功させていました。50歳を前にした彼女はこれからどう生きていくべきか、思い悩むようになります。そんなときに出会ったのがニキ・ド・サンファルの作品でした。

「増田さんはニキの作品が自分を解放してくれた、と言っていました。ニキと同年代で妻として、母として、また、仕事をもつ女性として悩みを抱えていた増田さんにとって、ニキの作品は特別なものだったのでしょう」

1980年に増田さんは自社ビルの中に「スペースニキ」をオープンさせます。以来、増田さんはニキの作品をコレクションし、ニキに会いにヨーロッパを訪れ、折に触れて手紙を交換するなど、友情を育みます。1994年には那須の別荘地にニキの作品だけを収蔵する世界で唯一の美術館「ニキ美術館」を開館させました。

この美術館の開館にあたり、ニキは3つの目がある顔が上にのり、タイルや鏡で飾られた建物を考えていましたが、敷地が国立公園内にあったため実現できませんでした。そのかわりにできた建物は主に直線で作られたシンプルなもの。その写真を見たニキは最初は不機嫌になりましたが、98年に来日、実際に美術館を訪れたときには周囲の眺めに感激したそうです。


仏像をモチーフとした、巨大でカラフルな彫像。

中央にある巨大な像が、『ブッダ』1999年 Yoko増田静江コレクション 
ラテンアメリカ文化への傾倒が見られる、『髑髏』2000年 Yoko増田静江コレクション

ニキは98年に来日した際、ニキ美術館のほかに京都を訪れていました。そこで目にした仏像をモチーフにしたのが上の写真の彫像です。合掌するブッダの背中には凹みが作られています。
「その凹みに座ってブッダとパワーを交感するイメージだそうです」
展示では座ることはできませんが、記念撮影は可能です。一緒に写真を撮るだけで御利益がありそうです。

高さ1メートルほどのどくろのオブジェは、ニキがアメリカ西海岸で暮らしていたときに制作されたものです。ニキが住んでいたのはメキシコ国境に近い場所だったため、ラテン・アメリカ文化に親しむ機会がありました。このどくろはメキシコやネイティブ・アメリカンの造形がヒントになっています。

「どくろに象徴される死のイメージは、西欧では遠ざけられるべきものですが、メキシコの『死者の祭り』に見られるようにラテン・アメリカなどでは親しみを持って迎えられます。ニキは神話など、土着のものを含むさまざまな宗教に関心を持っていました。このどくろはそんなニキの興味から生まれたものかもしれません」

手前は『スフィンクス(女帝)』1990年 Yoko増田静江コレクション、奥が『悪魔』1985年 ニース近現代美術館
壁に並んでいるのは、タロットカードの彫刻のリトグラフ。
中央に見えるのは『大きな蛇の樹』1988年 Yoko増田静江コレクション 

最後の展示室ではニキのライフワーク「タロット・ガーデン」を紹介しています。ガウディの「グエル公園」や郵便配達夫シュヴァルの理想宮に触発されたニキは、自分の彫刻が並ぶ小さな国を作ることを夢見て土地を探し始めました。イタリア・トスカーナ郊外に敷地を提供してくれる人が現れ、建設が始まったのは1979年のこと。ニキは「スフィンクス(女帝)」をモデルにした巨大な彫刻にベッドルームやキッチンを作ってそこに住み、職人たちと一緒に彫刻のパーツを制作していました。

タロット・ガーデンに並ぶ彫刻は22枚の「大アルカナ」と呼ばれるタロット・カードに基づいています。下の写真は枝の先が蛇になっている樹のオブジェ。旧約聖書に出てくる、永遠の命を与える実がなるとされる「生命の樹」がもとになっています。ニキの作品にはタロット・カードの12番「吊された男」が内包されています。会場ではモザイク状に貼られた鏡に照明が反射して、いっそう神秘的な雰囲気です。


トスカーナにあるタロット・ガーデンは1998年から一般に公開されています。公開期間・時間が限られている上、車でないと行けない不便なところですが、ニキが作り上げたこの理想郷の舞台裏は展覧会場で見ることができます。

ニキは生前から、自分の作品をもっと気軽に楽しんで欲しいと考えていました。彼女の作品は難しいコンセプトよりもぱっと見て楽しくなる、開かれたアートなのです。(青野尚子)

ニキ・ド・サンファル展

国立新美術館
住所:国立新美術館 企画展示室1E
会期:2015年9月18日(金)~12月14日(月)
休館日:火曜(9月22日(火)および11月3日(火)は開館、11月4日(水)は休館)
開館時間:10時~18時(金曜日は20時まで。入場は閉館の30分前まで)
入場料:一般¥1,600
TEL:03-5777-8600(ハローダイヤル)
http://www.niki2015.jp/