ありがとう!昭和を代表する古典酒場「河本」の最後の日。

ありがとう!昭和を代表する古典酒場「河本」の最後の日。

ありがとう!昭和を代表する古典酒場「河本」の最後の日。

初めて、木場の大横川を渡ったのは何年前だろうか。横には、まだ小学校低学年だった息子がいたから、少なくとも10年以上は経っているはずだ。藍染に白抜きの「河本」という暖簾をくぐると、化繊のブラウスにネイビーのベストを重ねた眞寿美さんが凛と立っていた。
「坊や、いくつだい?ワタシと9つ違いくらいかな、ハハハハ」。
眞寿美さんは20歳のまま、年齢を止めていた。そして、200歳まで生きるというのが口癖だった。

そんな眞寿美さんが「河本」から居なくなったのは、2018年の1月だった。そのまま店は閉じてしまうのかと思っていたら、長い間、眞寿美さんを横で支えていた実弟のあんちゃんと、奥さんの政子さんが営業日を減らして暖簾を守り続けた。
かくして、東京一のホッピーと、昭和を代表する古典酒場の灯は木場の地で新しい頁を開くことになる。

昭和の初期に甘味屋として初代が開業した「河本」は、20年の東京大空襲で消失。翌21年に、酒場として再開した。焼け野原となった深川で、店と妻子を失った初代の元に、やがて新しい伴侶が加わる。原爆で焦土と化した広島から、姉と弟の手を引いて上京した戦争未亡人、眞寿美さんの母だった。戦争という牙で傷付いた4人は、身を寄せながら、運河のほとりで1つの家族になった。

ありがとう!昭和を代表する古典酒場「河本」の最後の日。

近くには、吉原と並び立つ遊里、映画にもなった州崎パラダイス。町工場の明かりも復活し、縦横に走る運河には再び木場という地名の元になった無数の材木筏が浮かぶようになる。酒場「河本」は、工場労働者や職人たち、川並さん(筏師)で溢れるようになった。庶民には高嶺の花だった高額のビールに代わる飲み物として、当時発売されたばかりのホッピーを導入したのも店の人気に拍車をかけた。
その時、店の看板娘として義父を支えたのが、当時まだ12歳だった眞寿美さんだった。それから、約70年、雨の日も風の日も彼女は店に凛と立ち続けた。あの3.11の午後にも、彼女はカウンターの中でホッピーを注ぎ続けた。

空いたペットボトルで冷やした金宮焼酎を、計量用の厚手のグラス目一杯に表面張力を活かして注ぎ、即座にジョッキの縁にコツンとぶつけ、グラスを傾けながら一気に流し込む。横には冷えたホッピーの瓶が置かれ、客は瓶を逆さにしてジョッキを満たす。それが「河本」流の、理想的な三冷ホッピーだった。アテはあんちゃんが丹誠込めて作る「煮込み」、冬場には練炭で温めた「おでん」も登場した。

ありがとう!昭和を代表する古典酒場「河本」の最後の日。

そんな「河本」が、梅雨明け寸前の7月末、静かに終焉を迎えた。週3から週2営業になり、閉店日が告げられた頃から多くの人たちがカウントダウンに押し寄せた。カウンターには寄せ書き用のノートが置かれ、客たちは思い思いの言葉を書いた。スポーツ新聞社に勤める常連の1人が、みんなの言葉を小冊子にまとめて配った。そこに綴られた言葉の中には、本来酒場が持っている極めて真っ当な良心のようなものが行間に溢れ出している。

本来、酒場とは単に酒に酔うための場所ではない。そこに集る人たちに、積み重ねられた時間に、深い敬意を払いながら、豊穣な時間に馴染むための場所だ。
その時、傷付いた心や擦り切れた思いは半分に、喜びの心持ちは倍になるだろう。
古来より、酒場を学校に例える先輩たちは多い。自由ヶ丘の「金田」には、学校と書かれた額が飾られている。昔、新宿ゴールデン街には、文字通り「学校」という店もあった。

僕にとっての学校は、神保町の「兵六」と武蔵小山の「牛太郎」、そして「河本」だった。まだまだ卒業せずに、留年して居座りたかったが、それももう叶わない。
ありがとう眞寿美さん、ありがとうあんちゃん、ありがとう政子さん、ありがとう「河本」。