Takahiko Ishizaki

Takahiko Ishizaki / Writer / Kannushi
石﨑 貴比古/神主ライター

1978年生まれ。東京外国語大学大学院博士前期課程修了。「週刊新潮」、「Pen」の編集部を経てフリー。茨城県石岡市にある常陸國總社宮(ひたちのくにそうしゃぐう)という神社の禰宜(ねぎ)。お祭りやお祓いをしたり、原稿を書いたり書かなかったりして暮らす。趣味は料理と禊。インドでの「ガンジス禊」を計画中だが胃腸に不安が残る。
神社公式facebookページ:http://www.facebook.com/sosyagu

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常陸国の手仕事3~橘吉也の寄席文字~

常陸国の手仕事3~橘吉也の寄席文字~

常陸国総社宮の参集殿で大看板を書く橘吉也さん。

「江戸文字」とは勘亭流の芝居文字、根岸流の相撲字など、江戸時代にお家流の文字を図案化して流行した文字の総称。中でも橘流の寄席文字は天保年間に紺屋、つまり染物屋の栄次郎なる人物が創始した「ビラ字」が源流とされ、戦後に流派として一門を創始した橘右近が確立した。

文字を書くべき紙面を客席に見立て、大入りを願って黒々と隙間なく割り付けした文字は、江戸っ子の気質をそのまま表したかのような豪放磊落な表情がある。

これまで橘流を継承してきたのは18名。そこに昨年史上初めて平成生まれの門人が誕生した。

橘吉也さん(27)である。本名は髙木佑也。常陸国総社宮の氏子である石岡市に生まれた。


「何かと言えば絵や文字を書いたり、とにかく変わった子供でした(笑)。小さい頃からお祭り好きだったこともあって、既に当時から袢纏や提灯のデザインに興味がありました。小学校の頃に姉と一緒に書道は習っていたけれど、自分が書きたい文字を書けなくて嫌でした。もっと太々とした文字を書きたかったんです」


彼が「お祭り」と言うのは常陸国総社宮の例大祭のこと。お囃子を習ったり山車を引いたり、祭りっ子として育った髙木少年は祭半纏の文字を自分で書けたら、と漠然と思い始めた。そして大学3年生の時、自分の将来について真剣に考えることになる。


「祭り文化に関係する仕事をしたいとあちこちを訪ねて歩きました。そんな中、栃木県にある老舗神輿師・宝珠堂の小川政次さんの工房を訪ねたのが転機でした」

彼の熱意を見て小川さんはこう尋ねた。

「本当にやりたいのなら面倒を見てやってもいいが、一つだけ聞かせてくれ。一番やりたいことは何なんだ?」

少年は答えた。

「実は字なんですが、文字ではメシを食えるかわからなくて・・・」

そういうと少年は怒られた。

「今あなたがやらなかったら次の時代にはこの文化は途絶えているかもしれないぞ」

この言葉を聞いた髙木少年は腹をくくり、大学を中退。弟子入りするならこの人、と昔から惚れ込んでいた橘右之吉師匠の門を叩いた。

「アポを取ろうとしたら、電話口で断られてしまうかもしれない。だから場所も調べず、約束なしに突然訪ねていったんです。誰かが“工房の場所は湯島天神に行けば分かるよ”と言うので行ってみたら、本当に分かりました。1回目は閉まっていて、2回目は留守。3回訪ねてダメだったら縁がなかったとあきらめようと思っていたら、3回目で会うことが出来ました。菓子折りも持たず手ぶらでしたが、見よう見まねで書いた自分の文字は持ってきていました。弟子になるために大学を辞めてきたことをと話すと師匠は“随分乱暴な奴だな。田舎はどこなんだい?悪いことは言わないから帰ったほうがいい”とけんもほろろ。でも2、3時間ねばったら“今は仕事があるから日を改めて来なさい”と言ってくれたんです」


「改めて訪ねると湯島の天庄で天丼をご馳走になっていろいろ話をしました。文字の話題には一切触れませんでしたが。でも“またおいで“”」と言ってくれた。そんなやり取りが何度か続くと初めて“本当にやりたいんだったら一から教えてあげよう”という言葉をもらい、弟子になることが出来ました。その時にもらった筆があって、今はもう使っていませんが御守としていつも持ち歩いています」

常陸国の手仕事3~橘吉也の寄席文字~

書き終えた看板。

常陸国の手仕事3~橘吉也の寄席文字~

巴紋をあしらった手書きの原稿をillusratorで調整した常陸国総社宮の祇園祭のポスター。

それからはただひたすら書きに書いた。師匠の工房へ行くのは週に一度。寄席文字を書く「隈取筆」を買い、墨汁、鉛筆、ものさしといった道具を揃えて文字通りのイロハから教わった。

「稽古は11時から18時までで、まずは数字の一から十、そして百、千の文字を練習しました。書道と一緒で赤で直してもらったりしながら、一門の元祖となった橘右近師匠が残した手本を元に書きます。1年くらいである程度文字を書けるようになると今度は割付、つまりレイアウトの仕方を教えてもらいました」


もちろん自宅でも暇さえあれば書いた。昼間は地元のスーパーでアルバイト、夜は兄が経営する居酒屋の送迎バスの運転など、昼夜問わず忙しい日々だった。

右之吉師匠にはそれまでも2、3人の弟子希望者がいたことがあったが、皆一年以内で辞めてしまったという。やはり職人の世界ゆえか、憧れを抱く人が多い反面、厳しい現実に挫折してしまうのかもしれない。

「自分はお祭りで上下関係について鍛えられたこともあり、態度で怒られるようなことはありませんでした(笑)。師匠は本当に自分にとって昔から憧れの人。例えば誰かの半纏を見て“ああ、いい字だな”と思うと、それは右之吉師匠の文字でした。子供の頃からいろいろな人の文字を見ましたが、自分の中に一番すっと入ってくるのが師匠の文字なんです」

工房では書き方の指導を受ける傍ら、2、3年経つと師匠の身の回りの手伝いをするようになる。歌舞伎の公演や百貨店での実演など、全国各地の催事に際して道具を準備し、かばん持ちとして出かけて師匠の技をつぶさに見続けた。

「とにかく何もかもが勉強でした。神保町を歩いて資料になりそうな本を探したり、寄席にいって落語を聞いたり、分からない言葉があったらすぐに調べたり」

そのうちクライアントに断りを入れた上で「勉強」として実際に使う看板などを無料で書かせてもらうようになった。そして弟子になって6年経った平成29年正月、橘流寄席文字一門の承認を得て右之吉師匠から「吉也」の名前をもらい、正式な門人になることができた。


常陸国の手仕事3~橘吉也の寄席文字~

常陸国総社宮からの控紋が入った袢纏と、吉也さんが名刺代わりに使う千社札。

「大学を辞めたときは賛否両論で“就職して安定してからやればいいのに”と言う人もいれば“早く始めたほうがいい”という人もいました。でも僕は“言っても聞かない人”と思われていたので、結局は何も言いませんでした。母は“人に迷惑をかけなければ何をやってもいい”と言ってくれたし、父や兄は長い学生生活を続けていたような自分を支えてくれました」


実は彼の本名である「佑也」は筆者の父、つまり常陸国総社宮の宮司がつけたもの。縁とは不思議なもので今、吉也さんは神社の名前を胸の「控紋(ひかえもん)」に記した袢纏を身につけて当宮の祭典の案内看板や、ポスターなどを手がけてくれるようになった。「控紋」は出入りの職人に対してパトロンである寺社や旦那衆が誂えるいわば「お墨付き」。宮司が名づけた佑也少年は、晴れて神社出入りの職人「吉也」となったのだ。

常陸国の手仕事3~橘吉也の寄席文字~

看板の最後には名前と落款が入る。

橘流寄席文字を後世に伝えることが最終目標だという吉也さんはこう語る。

「師匠は“伝統”という言葉を安易に使うなと言います。昔のものを元に現代のものを作っていかなければ伝統は先細りになってしまいます。今や文字職人もillustratorでパスを取ってデータ入稿する時代。時代に応じた技術を身につけなければいけないと思ってこちらも勉強中です。江戸文字風のフォントとか、安直なものはたくさんありますが、本物に目を向ける人が少ないように思います。だからこそ自分のような者ががんばらなくちゃと思うんです」

若き職人の眼差しは、常に未来を見据えている。


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