Toshiyuki Araoka

Toshiyuki Araoka / Buyer / Director
荒岡 俊行/バイヤー兼ディレクター

1971年生まれ。東京・御徒町出身。1940年から続く「荒岡眼鏡」の三代目。
父方も母方も代々眼鏡屋という奇遇な環境に生まれ育ち、自身も眼鏡の道へ。
ニューヨークでの修業を経て、2001年に外苑前にアイウエアショップ「blinc(ブリンク)」、
2008年には表参道に「blinc vase(ブリンク・ベース)」をオープンさせる。
「眼鏡の未来を熱くする。」をミッションに掲げ、
眼鏡をカルチャーの1つとして多くの方々に親しんでいただけるよう、眼鏡の面白さや楽しさを日々探求しています。
http://blinc.co.jp

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上野、不忍池にある弁天堂にて「めがね之碑供養」

上野、不忍池にある弁天堂にて「めがね之碑供養」

先月のことになりますが、上野の不忍池にある弁天堂に「めがね之碑供養」に父と一緒に行って来ました。「めがね之碑供養」とは、眼鏡業界に携わった故人たちを供養し、業界の今後の発展を願う集いです。毎年1回行われ、今年で49回目になりました。

上野、不忍池にある弁天堂にて「めがね之碑供養」 上野、不忍池にある弁天堂にて「めがね之碑供養」

前回のブログでご紹介しましたが、この碑が建てられたのは今から48年前の1968年、日本は高度経済成長の頃でした。この年、日本のGNPは、当時の西ドイツを抜きアメリカについで第2位になりました。同年、石原慎太郎さん、青島幸男さん(2006年没)、横山ノックさん(2007年没)のタレント議員が誕生し、三億円強奪事件が起こりました。川端康成がノーベル文学賞を受賞し、週刊少年ジャンプが創刊された年でもあります。

60年代後半から70年代前半にかけては、日本の眼鏡の歴史で言えば、ちょうど変革期でした。昔は、東京の葛飾には眼鏡工場がたくさんあり、セルロイド製の眼鏡の製造が行われていました。セルロイドは、素材特性で可燃性があります。製造時の取り扱い方により、燃え易くて危険な素材なのです。

葛飾では、もともとセルロイド製のオモチャを製造する工場も多く、アメリカに輸出していました。しかし、1955年にアメリカでセルロイド製品による火災が多発したことから、アメリカで可燃物資規制法が成立して輸出ができなくなりました。そのような背景から、眼鏡を含みセルロイド製品の製造はしだいに減って行きました。また、葛飾にあった多くの眼鏡工場も製造中の火災が多発したのが原因で、60年代後半くらいまでに激減し、東京での眼鏡作りが衰退して行ったのです。

それと入れ替わるように70年代初めから県をあげて機械化により急激に伸びたのが、福井県です。当初は、ドイツを中心に舶来製の眼鏡の品質への信頼性は高く、それに比べ日本の眼鏡に対する一般的な評価はあまり良くなかったのです。しかし、今では福井の鯖江の眼鏡といえば、世界有数の眼鏡産地として有名で、世界一の品質を誇ります。

また、セルロイドに変わり眼鏡の素材になったのは、セルロイドと比べて引火性の低いアセテートでした。現在では、セルフレームと呼ばれても、実際はほぼ素材はアセテートです。日本のアセテートの素材は、海外製に比べて原料となるペレットの純度も高く品質がとても良いのです。

しかし、それも現在ではアセテートの生産は海外でほとんど行われ、残念ながら日本では兵庫県の網干にある一社しかアセテートの生産をすることができません。

めがね之碑が建てられて、この48年の間に日本の眼鏡作りは、様々な変化がありました。
48年前、眼鏡業界の先人たちは、どのような思いで未来に向かってめがね之碑を建てたのでしょうか? 眼鏡を取り巻く環境が、こんなに劇的に変わるとは誰も予測していなかったはずです。

上野、不忍池にある弁天堂にて「めがね之碑供養」

めがね之碑供養のお土産に、上野の老舗、亀井堂の「瓦せんべい」をいただきました。表面には、眼鏡の形に焼印がしてありました。絵をよく見ると、めがね之碑の石の正面に彫られているのと同じ、徳川家康の愛用した眼鏡でした。
徳川家康が亡くなって、ちょうど今年で400年になります。400年前の眼鏡は、現代の眼鏡と比べるとかなり変わっています。

上野、不忍池にある弁天堂にて「めがね之碑供養」

それにしても江戸時代に建てられた弁天堂は、不忍池にポッカリと浮かんでおり、子供の頃からずっと見ていますが、いつ見ても全然変わりませんね。

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