セックスとドラッグと、クラシック音楽界の構造的欠陥

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    セックスとドラッグと、クラシック音楽界の構造的欠陥

    米クラシック音楽界の内情を赤裸々に描いたAmazon制作のドラマ『モーツァルト・イン・ザ・ジャングル』。その原作本は、スキャンダラスな内容とはうらはらに、鋭い指摘に満ちている。

    2016年、米Amazonが制作を手がけた少々異色なドラマが第73回ゴールデングローブ賞の主要2部門を受賞した。『モーツァルト・イン・ザ・ジャングル』。ニューヨークの名門オーケストラを舞台に、クラシック音楽という一見「お堅い」世界の内情を赤裸々に描いた上質のコメディドラマである。

    原作は同名の書籍『モーツァルト・イン・ザ・ジャングル ~セックス、ドラッグ、クラシック~(上下巻、筆者訳、ヤマハミュージックメディア)。オーボエ奏者として数々のオーケストラで演奏し、現在はジャーナリストとして活躍するブレア・ティンドールの自叙伝だ。セックスとドラッグと閉塞感が蔓延するクラシック音楽界の内情を暴露し、音楽学校時代に受けたセクハラや、主席奏者とのセックスと引き換えに仕事を得てきた自らの体験を綴っている。

    だが、そんなスキャンダラスな内容とはうらはらに、アメリカの音楽業界史を俯瞰し、その構造的欠陥を指摘する著者の視点は鋭い。

    アメリカのクラシック音楽家を取り巻く現実は、ドラマのなかでコメディタッチで描かれる以上に過酷を極めているのが実情だ。プロのクラシック演奏家を夢見て、毎年膨大な数の才能ある若者が音楽大学を卒業する。そのなかでソリスト(独奏者)やオーケストラ団員として安定した地位を得ることができるのは、ごくひと握りの選ばれた人間のみだ。

    大多数の演奏家は低賃金のフリーランスの仕事で何とか食いつなぎつつ、めったに空かないオーケストラ常任団員の席をめぐって熾烈なオーディションに挑んでは敗れる日々を繰り返すこととなる。

    医療保険もなく安アパートに暮らし、時たま代理演奏の仕事をもらえても、無給のリハーサルや膨大な移動費を考えれば報酬は最低賃金以下。創造性とは無縁のあくなき反復練習と代わり映えのしないコンサート演目に音楽への情熱は次第に薄れ、さりとて音楽以外の教育を受けてこなかったためキャリア転向の道はもはや閉ざされている......。

    本書の随所から伝わってくる「音楽への愛」

    著者のティンドールもまた、「注目を浴びたい」という少女時代の幼い憧れから音楽学校という進路を選び、豊かな才能に恵まれながらも、脱出路のないクラシック業界という泥沼にはまり込んでいった。


    彼女のように1970年代に音楽の道を選んだ若者たちを後押ししたのは、「社会を豊かにする公共の利益」として音楽をもてはやす1960年代以降のカルチャーブームだったと、ティンドールは指摘する。

    「音楽は社会のためになる崇高なもの。だから公的資金によって支えるのが当然である」という風潮のもと、アメリカのオーケストラや音楽学校は公的資金や寄付金を頼りに、実際の需要に見合わない拡大を続けていった。そうしてブームがとっくの昔に終焉を迎えた後もなお、クラシック界はかつての虚像を追い続け、受け皿のない業界に大量の学生を送り込み続けているのだ。

    そんないびつな構造を厳しく批判する一方で、ティンドールはプロの音楽家を志す読者に訴えかける。低い賃金、不安定な雇用、長時間におよぶ単調な練習、そういった厳しい現実をすべて受け入れられるほど自分は真に音楽を愛しているか、もう一度自らに問いかけてほしい、と。

    彼女の音楽への愛は確かに本物だったはずだ。それは本書の随所から伝わってくる。重い心臓病を抱えるピアノ奏者サムとの心通い合うリサイタル、オーケストラの息がぴったりと合ったときの魂の震えるような感動、人生初のソロリサイタルで感じた音楽への深い喜び――。

    だが、そんな彼女でさえ長年のフリーランス生活に疲弊し、何十回目かのオーディションに落ちたあるとき、虚無感とともに思うのだ。「もうたくさんだった。自分がこんなことを好きでやってる振りをするなんて、もうたくさんだ」

    結局、ティンドールは39歳にしてプロの音楽家の道を捨て、大学のジャーナリスト学部で学びなおす決意をする。ニューヨークを発つ前の最後の夜の逸話が印象的だ。シティ・オペラで代理演奏を務めた彼女は、皮肉にも音楽人生でそう何度もないような会心の演奏を披露する。同僚の楽団員からの賛辞に、しかし彼女はもはや舞い上がることはなく、心のなかで冷静にこうつぶやくのだ。

    「今夜の演奏は、天から偶然降ってきた素敵な贈り物にすぎない。ごく稀にしか実をつけない木から、たまたま完璧な木の実が採れただけのことだ」

    それはまさに音楽という芸術の美しくも残酷な本質なのだろう。そしてその本質は、本来「仕事」という枠組みとは相いれないものなのかもしれない。

    柴田さとみ ※編集企画 トランネット


    トランネット

    出版翻訳専門の翻訳会社。2000年設立。年間150~200タイトルの書籍を翻訳する。多くの国内出版社の協力のもと、翻訳者に広く出版翻訳のチャンスを提供するための出版翻訳オーディションを開催。出版社・編集者には、海外出版社・エージェントとのネットワークを活かした翻訳出版企画、および実力ある翻訳者を紹介する。近年は日本の書籍を海外で出版するためのサポートサービスにも力を入れている。
    http://www.trannet.co.jp/